平野郷十三口・杭全神社道標

マーカーは杭全神社道標です。

平野郷
[平安時代初期に坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂荘園があったことから、「平野」という地名は「広野」からの転訛によるといわれている。862年(貞観4年)には広野麻呂の子の坂上当道八坂神社を勧請して杭全(くまた)神社が創建されている。
広野麻呂の荘園はその後、摂関家九条家を通じて宇治平等院へ寄進され、織田信長の直轄地となるまでの約500年間は平等院領であった。荘園は杭全荘と呼ばれていたが、鎌倉時代頃から平野荘とも別称された。

1127年(大治2年)に大念仏寺が開基されると、門前町が形成されるようになった。戦国時代になると、町の周りに二重の濠と土居を巡らせ、13ヶ所の出入口には門と門番屋敷が設置された。なお、門の脇には地蔵堂も建てられ、12の地蔵堂が現存している。濠内は坂上氏の末裔と称する平野七名家による自治が行われるようになり、七名家が権力を有する以下の本郷七町に分かれていた。
●馬場町(成安氏)
●泥堂町(則光氏→黒瀬氏(井上氏))
●市町(利国氏→土橋氏)
●野堂町(末吉氏
●流町(利則氏→三上氏)
●背戸口町(安国氏→辻葩氏)
●西脇町(安宗氏→西村氏)
織田信長が台頭すると、同じように環濠都市・自治都市であった会合衆から協力要請を受けるほどであったが、結局は信長に屈服した。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、町の有力商人は大坂城下へ移住させられた。なお、移住先は徳川期には城下ではなく東成郡北平野町村・南平野町村となっていた所で、現在の中央区東平上汐および天王寺区上汐などに当たる。大坂の陣では七名家の筆頭ともいえる末吉氏が徳川方に尽力し、平野に徳川秀忠の陣が設けられた。
1615年(元和元年)、末吉氏は平野および河内国志紀郡河内郡代官に任ぜられ、大坂の陣で灰燼に帰した平野の復興を行い、環濠も再度掘り直された。さらに、度重なる洪水に見舞われた志紀郡柏原村の復興の一環として、1636年(寛永13年)に柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟が平野の環濠と連結する平野川に通うようになった。平野は1671年(寛文11年)には馬継場にも指定されて水運・陸運双方の恩恵を受けるようになり、河内木綿の集散地として発展した。
全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。  (wikipedia・平野_(大阪市)より)]

杭全神社道標
[昔の街道沿い 杭全神社入口の 道標
當社 熊野権現 祇園宮
右 ふぢい寺(葛井寺)
  大峯山上(山上ヶ岳大峰寺)
  かうや山(高野山)

すぐ 天王寺
   大さか

右 大坂
寛政十二年・・・・  (「近くの杭全(くまた)神社 散策 / shoさんの大阪市の活動日記」より)]

攝州平野大繪圖」(宝暦13(1763)年) – 平野郷の絵地図で、集落外周に杭全神社参道を含め十三口が描かれています。

今昔マップ on the web」(1892~1910年) – 地図初期設定画面中央が平野郷町で、集落外周に杭全神社参道を含め十三口が描かれています。

杭全神社道標前のカメラです。