広島藩浅野家京岡崎屋敷跡

マーカーは広島藩浅野家京岡崎屋敷跡です。

[第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、浅野長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征討が勃発した際は停戦を主張し、7月には岡山徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。
明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄ててを長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗家の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。  (wikipedia・浅野長訓より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央・姉小路/東洞院右上に芸州ヤシキ(広島藩浅野家京屋敷跡)が描かれています。また絵図中央右、鴨川右、越前屋敷下に芸州ヤシキ(広島藩浅野家京岡崎屋敷跡)と記述されています。)

カメラ位置は二条通/東大路通交差点で、カメラ北方向東大路通両サイド一角が広島藩浅野家京岡崎屋敷跡になります。