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広済寺
[広済寺(こうさいじ)は、兵庫県尼崎市にある日蓮宗の寺院。山号は久々知山。かつては久々知妙見の神宮寺であり、近松門左衛門ゆかりの寺院としても知られている。旧本山は京都本満寺(六条門流)、莚師法縁(隆源会)。
創建には諸説あるが、『小田村勢』では『摂津名所図会』を引用して、957年(天徳元年)に多田満仲が勧請し禅宗の寺院として創建された後、1714年(正徳4年)に日昌が再興し日蓮宗に改宗したと記されている。
再興には、尼崎城主・松平家の協力を得て、満仲勧請の妙見宮を祀った。
日昌は大阪にあった船問屋・尼崎屋吉右衛門の二男で、出家の後偶然妙見菩薩のお告げを受け、満仲ゆかりの同地を精舎建立の地に決めたという。この時建立に尽力したのが近松門左衛門であった。
日蓮宗の信者であった近松は、日昌の生家「尼崎屋」の支援者だったこともあり、建立本願人として貢献している。近松作品の出版元であった大阪の正本屋九右衛門や歌舞伎役者・三代目嵐三右衛門ほか役者や商人がこぞって寄進し、妙見宮本殿や本堂などが建立された。
近松は自ら寄進したこの寺をこよなく愛し、寺では本堂裏に彼の仕事部屋を造った。のちに近松屋敷と呼ばれたこの部屋に晩年の約10年、10里の道程を厭わず訪れ、『大経師昔暦』『女殺油地獄』などの名作を次々に生み出した。
近松亡き後も、この部屋では彼をしのび、大阪の役者たちの手で浄瑠璃が上演された。また、参詣に訪れる役者が絶え間なかったという。
だが、明治の廃仏毀釈により、貧窮から境内は再興時の4分の1に減り、本尊の日蓮像も売却されるなど急速に疲弊していった。本堂が傾き、幽霊屋敷と噂されるほどの荒廃ぶりに、入山の下見に訪れるも驚いて逃げ帰る僧がいたとされる。
その後、本堂は庫裏や書院と共に1987年(昭和62年)に新築された。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では本堂にヒビが入り、山門や妙見堂が傾き、近松の墓碑が倒壊するなどの被害を受けたものの、1999年(平成11年)6月20日の妙見堂落慶法要をもって境内の復興を遂げている。
「近松の里(道路修景整備)」で、平成6年度手づくり郷土賞(ふるさとを紹介する道部門)受賞。
妙見堂(開山堂) – 本堂南東側に建つ。元来は日昌を祀る開山堂であったが、廃仏毀釈により旧妙見宮にあった北辰妙見大菩薩、牛頭天王、諏訪大明神の神体が移され、日昌尊像とともに安置されている。wikipedia-photo
本堂 – 山門を入って正面南向きに建つ。本尊は一塔両尊四師。日蓮の大曼荼羅本尊を木造化したもの。本堂裏には明治末まで、前述の「近松部屋」と呼ばれた建物があった。wikipedia-photo
近松門左衛門墓(国の史跡) – 国の史跡(1966年(昭和41年)9月2日指定)。本堂東側墓地に建つ。高さ約48cm、緑泥片岩の自然石墓碑。表には、近松と妻の戒名が並んで刻まれている。wikipedia-photo
(wikipedia・広済寺_(尼崎市)より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「8巻35・久々知妙見祠」
広済寺山門前のカメラです。
広済寺本堂前のカメラです。