廃岩倉開元寺

マーカーは廃岩倉開元寺・多宝塔跡碑前です。

廃岩倉開元寺
[昭和31年(1956年)に行われた発掘調査により、岩倉開元寺は鎌倉時代から室町時代の間に創建され、交野山一帯にかけて位置していたと考えられています。 また、「げほう岩」と呼ばれた岩場の東側などを調査した結果、礎石が並んだ塔跡などの建物が確認されました。周辺からは、寺院に使われていた多量の瓦や懸仏(かけぼとけ)・宋銭青磁器片などが出土しています。「河内名所図会」には、交野山の山腹に梵字(ぼんじ)が刻まれた巨石部分が〝南岩倉開元寺〞の古跡であったと記されており、創建当時の呼称は定かではなく、謎の多い寺院です。
 また、交野山には梵字が彫られた巨石が多数あります。 山頂の観音岩の北面中央部にある彫り穴からは、寛文10年(1670年)の銘文がある銅板が発見されています。そこには、「大阿闍梨法印実伝」という僧が、江戸時代に開元寺を再興し、観音岩などの巨石に梵字を刻んだことが記されています。残念ながら、現在では銅板は失われ、 彫り穴のみが残っています。
岩倉開元寺跡を発掘調査した際に発見された懸仏は、青銅製で円形の薄い銅板に半肉彫りの仏像を鋲止めしており、木製の板に取り付けられ、堂の軒先につるして用いられたと考えられます。銅造千手観音坐像は、14世紀末ごろの制作と思われます。円形縁の中央に仏像が座り、その両脇に花瓶が配置されています。両手を合わせて合掌し、さらにその下に両手を前で上向きに組んでいるため、おそらく千手観音菩薩を示していると考えられます。銅造独尊坐像は、15世紀初めの制作と思われます。中央の仏像は、右手を胸前に掲げ、左手を膝上に置いているように見えるため、地蔵菩薩薬師如来・あるいは釈迦如来とも考えられます。また、両脇にはこちらも花瓶が配置されています。  (「岩倉開元寺やその出土品」より)]

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「開元寺瀧(源氏の滝)(6巻39)

[天平時代に栄えた開元寺が、鎌倉時代には岩倉開元寺として交野山上で桃山時代までその寺観を誇ったが、織田勢の一撃であえなく全山灰燼となってしまい、遂に山上から下って、滝の入り口即ち交野中学校の位置にささやかな堂宇を再建することとなった。加地家所蔵・明治4年倉治村寺院調べには、「中興正保4年(1647)宝伝住職云々・・・」と記されており、当時の住職宝伝によって再建されたことが分かります。
 河内名所図絵の「源氏の滝」の絵の中には、小堂と庫裡があってそれを生垣で取り囲み、瀧本坊と記している。(図絵左下)
これによって江戸時代の寺観を窺うことができるが、それは明治時代になってもあまり変化がなかったようで、同加地家寺院調では、天台宗・京猪熊・千蔵院末 開元寺、住職観教(77歳)外に弟子2人と記され、その後、住職が続かず無住のまま自然廃寺となった模様です。
 その後、戦時中、倉治の金沢さんにより修養道場がこの土地と現在の警察学校の射撃場の二か所に開かれ、公園の上のプールは、当時の禊の場所だったそうで、寒中、水に入り、「流汗鍛練 同胞相愛」と唱えながら修養されたそうです。
 戦後の六・三制の学校として交野中学校は、当初この修養道場の建物を利用して建てられた。学校としては室の大小・配置・採光・運動場の面積などに難点があった。また、星田方面からの生徒にとっては通学が極めて不便であった。
 昭和35年、現在の第一中学校の位置に用地を買収し、翌36年、鉄筋3階建て校舎など全館が完成、講堂・プールも備えた近代様式建物が竣工した。
 その後、この中学校用地は、大宝工業(株)の中央研究所を経て、住宅地と変わった。  (「山の根の道を歩く(その2)神宮寺~寺~森~京阪河内森駅」より)]

カメラ位置は大坂道(現枚方大和郡山線)・倉治公園(旧交野中学校跡)北西角で、倉治公園に図絵で描かれる瀧本坊があったようです。

開元寺瀧(源氏の滝)への道口のカメラです。

開元寺瀧(源氏の滝)前のカメラです。(Google Map)

交野山 三宝荒神(廃岩倉開元寺)参道口のカメラです。

廃岩倉開元寺跡碑前のカメラで、カメラ方向小道が石仏の道(ご来光道)で、神宮寺集落方向になります。

廃岩倉開元寺跡・多宝塔跡碑前のカメラです。