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廣田神社
[廣田神社(ひろたじんじゃ、広田神社)は、兵庫県西宮市大社町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
日本書紀に当社の創建のことが書かれている。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。
平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。
元暦元年(1184年)、源頼朝が当社に平氏の討伐を祈願して淡路国・広田荘を寄進している。慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって大規模な社殿の改築が、末社の戎社(現・西宮神社)共々行われている。
当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため享保9年(1724年)に江戸幕府将軍の徳川吉宗により廣田山の地に遷座した。
1945年(昭和20年)8月6日の西宮空襲によって社殿を焼失する。空襲による全焼までは廣田山に鎮座していたが、戦後その東側の現在地に移転している。
本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて1963年(昭和38年)に竣工したが、1981年(昭和56年)に不慮の火災によって焼失した。
1984年(昭和59年)に現在の本殿が完成し、2001年(平成13年)に鎮座1800年の喜節を迎えた。
一の鳥居・wikipedia-photo
二の鳥居・wikipedia-photo
拝殿正面・wikipedia-photo
拝殿側面・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、廣田神社の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・廣田神社より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻13・廣田神社.JPG」
廣田神社二の鳥居前のカメラです。
廣田神社結界門前のカメラです。
廣田神社本殿玉垣前のカメラです。
廣田神社本殿拝殿前のカメラです。