待宵小侍従の墓・顕彰碑

マーカーは 待宵小侍従の墓・顕彰碑です。

[待宵小侍従の墓・顕彰碑
もとは、東西約四・五m、南北約三・六mの墓地を持ち大正の頃までは、高さ約〇・九mの石塔が立っていました。現在は、水輪一個だけが残っています。この地は苔山と呼ばれており、地元では「こけじんさん」と、親しまれています。名神高速道路拡張工事に伴い、平成七年に現在の位置に移築されました。
  待宵小侍従
平安末期~鎌倉初期の女流歌人(一一二〇~一二〇一)
父は石清水八幡宮二五代別当大僧都光清で、母は花園左大臣家女房小大進です。三九歳のころ夫の藤原伊実(太政大臣 藤原伊通の子)と死別し、のちに二条天皇に仕えました。天皇の崩御後、同皇后藤原多子に仕え太皇太后小侍従として、しばしば歌合せに出席するなど、一流の女流歌人として歌壇に確かな地位を占めるようになりました。
  待つ宵の けふ行く鐘の こゑきけば
           あかね別れの 鳥はものかは
これは、彼女の呼び名のもととなった「待宵の歌」で、訪ね来ぬ人を待ち明かす苦しみを詠んだもので「新古今和歌集」にも収められています。
「平家物語」巻五の月見の段によると、大宮(多子)から「待宵、帰る朝、何れかは哀れはまさる『待宵・恋人の来るのを待っている夕べと、帰る明日・恋人の帰っていく朝とではどちらが情緒深いだろうか』」との問いに答えて詠み、このことより彼女を「待宵」と呼ぶようになったといわれています。晩年は出家して桜井に真如院(応仁の乱の兵火により廃絶)を開基、隠棲したと伝えられます。
後に能因法師、伊勢と共に東摂の三歌人と呼ばれました。
 待宵小侍従の顕彰碑
高槻城主 永井日向守直清慶安三年(一六五〇)に建立しました。碑文は林羅山の撰です。ほかに直清は、能因法師・伊勢の顕彰碑も建てています。
 碑文略      (待宵小侍従墓・顕彰碑 – Google Map 画像リンクより)]
 
摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」- 「6巻64・待宵小侍従墳

待宵小侍従の墓・顕彰碑前のカメラです。

待宵小侍従墓・顕彰碑(Google Map 画像)