マーカーは御所坊です。
御所坊
[御所坊は建久二年(1191年)創業と伝えられる。当初、御所坊は温泉の湯殿の脇に店を構え、「湯口屋」と呼ばれていた。藤原定家の旅日記「明月記」によると、創業まもない承元二年 (1208年)十月、定家が訪れた有馬は貴人でにぎわっており、「湯口屋」には平頼盛の後室が泊っていたようだ。なお、当時の湯口屋は、九条家が湯泉神社とともに運営していたと建武三年(1337年)の九条家政所の注進状に記録されている。
14世紀末、足利義満が有馬温泉を訪れた。その際に御所坊の前身、湯口屋に逗留したようで、この逗留を期に、湯口屋は「御所」と呼ばれるようになった。室町幕府6代将軍足利義教や同8代将軍足利義政に仕えた相国寺第50世住持の瑞渓周鳳は、享徳元年(1452 年)四月に有馬を訪れ、日記の中に、この「御所」の由来について記している。
文明15年(1483年)8月、蓮如上人が御所へ逗留した。この頃、御所の名前に「坊」がついたようだ。
天正十一年(1583年)以降、豊臣秀吉は北政所ネネや千利休等を連れて何度も有馬に訪れた。文禄三年(1594年)には、有馬に秀吉の湯山御殿を建設、その際に御所坊は秀吉から十三石を譲り受けて現在の滝川沿いの場所に移った。 (「御所坊グループとは – 御所坊800年の歴史」より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「12巻12・湯治客酒宴湯女」
[江戸時代の湯治での遊興や酒宴は、旅鬱をはらすために有効な療養行為としてみなされていたようです。江戸時代の観光ガイドブックである『摂津名所図会』にも、湯治客の酒宴の様子が描かれています。そして、この酒宴につきものなのが、図にも描かれている有馬の湯女(ゆな)です。湯女は入湯客の世話や浴場の差配をするのが仕事ですが、酒宴に呼ばれれば、有馬唄や三味線などの芸も披露しました。姫路藩主酒井忠以が有馬滞在中に詠んだ歌や俳句の中にも、湯女との関わりの中で生み出されたものがあります。
有馬山湯女の笹原風吹は湯てそよ人をさそいあはする (湯女に世話をうける人を見て)
秋はさぞ落ち葉の山の桜さへ (竹という湯女から落葉山の桜をもらったことを受けて) (「-名湯・有馬を大満喫- – 姫路市」より)
[(有馬温泉模擬体験)
宿の暖簾を潜ります。女中が出迎え人数を聞いてきました。あなたが人数を答えると、暫くして人数分のお茶と、タライでの足湯の接待を受けます。次に宿泊や入浴のシステムとコースの説明を受け、滞在期間やどの方法での入浴かを決め返事します。『合幕』という数組抱き合わせ入浴で、1人1週間2匁のコースを選びました。 そして、3階の部屋に案内されます。 部屋の中を見ると釜などの自炊設備が整っています。あなたはこの部屋が気に入り、滞在期間中借りる事を返事しました。あなたが再度階下に下り待機している間に、下女や宿の女将が部屋を掃除し、荷物を運び入れてくれました。掃除し終わった部屋に通されると下女が火鉢・煙草盆を持って来ました。
暫くして宿専属の仕出し屋が生活用品(布団、箸、布巾、下駄、薪、割り木、炭、白米、 魚、野菜、油、醤油、塩等)を、明細を通い帖(納品書お客様控え帖)に記入した物を添え、納めに来ました。割り木は普段自分で釜を焚いた事が無い人にも簡単な様に燃えやすく配慮されています。又、醤油や油は竹筒入りで、縄で台所の柱の折り釘に掛けるようになっています。布団にはグレードがありますが、折角ですから“上”を頼むことにします。風呂に行っている間にでも届いているのでしょう。
後、忘れずに下女に頼んで、夜の宴に『湯女』を呼んでもらう手配をしてもらっておきましょう!太鼓と三味線も。それと酒宴の肴も料理屋に注文してもらっておきましょう。
≪宿泊料金≫
実は元々有馬の宿は「宿坊」という性格なので、一般的な他の土地の宿とは違い、基本的に決まった泊まり賃の設定は無く、客は諸々の道具等の借り賃を支払い、「心付け」を渡したそうです。
◆自炊宿泊の場合: 泊り賃(=心付け)、七厘、鍋、釜の借り賃は宿に、布団、薪、炭、米、 魚、野菜、油、醤油、塩などの生活道具や食材代等は仕出屋に払いました。
◆食事付宿泊の場合: 泊り賃(=心付け)は宿に、食事代、布団代は仕出屋に支払いました。
安政元年(1854年)に大火があり、有馬全体が焼けてしまった折の申合書(今後の取り決め)には、旅籠一人(朝食、夕食付)上2匁5分、中2匁、下、2匁8分とあり、そのころにはそういう風に泊まり賃を取るシステムに変わっているのが分かります。
宿には現在のように一夜客も泊まれ、宿に手配して貰い食事を頼むことも出来ましたが、当時、ほとんどの客は滞在型で、湯治客自身が自炊しました。 小宿の宿泊階には自炊の為のかまどや調度もあり、部屋毎に使用した塩、醤油、野菜、魚、薪などの注文を控える通い帳を折釘に掛けて滞在しました。米や、薪は女中が運び、仕出し屋が日常の生活に必要なものを売りに来て、売った物の明細を客の控えとして通い帳に書き込んでいきます。
厠は大抵建物の裏手の庭に離れて在ります。
湯治の滞在期間は「一廻り」が基本の契約単位で、有馬では、1週間の事でした。(ちなみに城崎温泉では一廻りは5日間だったとか。)長期滞在もこの単位が基本になります。
それにしても1週間が基本なんて、現在と比べて何と優雅ではないですか!交通手段が基本的に徒歩で、何日も掛けて歩いて有馬に来た訳ですから、やはり1泊や2泊では納得できませんね。
≪宿泊にともなう付帯費用≫
一間駆り切りの湯治客には、町内を掃除し衛生を維持するための費用負担である『間の銭』として40数文(時代によって変動しました。)を集める決まりがあり、町内の担当者が一廻り(1週間)の前日に集めに廻りました。
又、宿への心付けの他に湯女への心付け(かんざし代)や下男、下女(女中)への心付けなど、金額に決まりはありませんでしたが渡すのが常でした。宿の子供や娘に渡したりもした様で、長期滞在ならではのほのぼのとした心の通った交流が垣間見られます。 (「有馬温泉うんちく情報 – FC2」より)]
カメラ南南西方向が御所坊になります。