慈眼寺

マーカーは慈眼寺です。

慈眼寺
[慈眼寺(じげんじ)は、大阪府大東市野崎にある曹洞宗の寺院。山号は福聚山(ふくじゅさん)。本尊十一面観音。野崎観音(のざきかんのん)の通称で知られる。
生駒山地北部の中腹に位置し、境内からは大阪平野を望むことができる。境内から野崎城跡をへて吊り橋を通って飯盛山飯盛山城跡などへ至る登山道があるため、休日は登山者の参詣も多い。
5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのもの」に対し、感謝の読経を捧げる行事)は「野崎詣り(のざきまいり)」の通称で知られ、江戸時代より続く。「野崎詣り」の期間は参拝客で賑わう。
かつての「野崎詣り」は大坂から川を遡り、かつて生駒山の麓に存在した深野池まで舟で行くという参詣の風景が見られ、人形浄瑠璃や落語等のフィクション作品の舞台となっている。
●人形浄瑠璃・歌舞伎女殺油地獄』(近松門左衛門
●人形浄瑠璃・歌舞伎『新版歌祭文』(近松半二) – 通称『野崎村』。
上方落語野崎詣り
天平勝宝年間(749年 – 757年)に天竺インド)から来朝した婆羅門僧正が行基に「野崎は釈迦如来が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたという。
平安時代遊女・江口の君(江口の長者)が、難病治癒の報恩を感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力(同寺では中興の祖と位置付けられている。なお、寺院移転に関しては真言宗関与説がある)した。
室町時代には当寺の後方に河内守護畠山氏によって野崎城が築城されたために戦火にあって衰微した。特に永禄8年(1565年)には三好三人衆松永久秀による合戦の兵火(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼している。
元和2年(1616年)に青厳によって再興されると、天和2年(1682年)に「野崎詣り」が始まる。元禄宝永年間(1688年 – 1710年)までに、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。
かつて西側一帯には付近の川(大和川付け替え以降は寝屋川および支流の谷田川)につながる大きな池・深野池があり、大坂側のターミナルである天満橋八軒家浜から深野池にかけて「野崎詣り」の参拝客向けの屋形船が行き来していた。船の搭乗客の間では、陸路を歩く参拝者と罵り合う風習があったといい、競り勝てば一年の幸を得られる、と信じられたと伝わっている。
昭和47年(1972年)7月12日、 昭和47年7月豪雨により寺院裏手の山が崩れ、大書院が土砂で埋まって全壊する。
大阪みどりの百選に「野崎観音の緑」が選ばれている。

山門・wikipedia-photo

楼門・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

  (wikipedia・慈眼寺_(大東市)より)]

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「野崎観音天王社(6巻5)

野崎詣り.JPG(6巻7)

行楽遊山(6巻7)

慈眼寺南門参道前のカメラです。

慈眼寺西門前のカメラです。

慈眼寺境内のカメラです。

慈眼寺本堂前のカメラです。

お染久松之塚前のカメラです。