日本橋(長町裏遠見難波蔵)

マーカーは日本橋3丁目交差点です。

日本橋
[江戸時代には紀州街道の一部区間である堺筋に面して旅籠木賃宿が建ち並び、長町(ながまち)と呼ばれていた。1792年(寛政4年)に長町1 – 9丁目のうち現在の中央区側に当たる長町1 – 5丁目が日本橋1 – 5丁目に改称され、長町は現在の浪速区側にあたる6 – 9丁目のみとなった。  (wikipedia・日本橋_(大阪市)より)]

里の家芳瀧(中井芳滝)/画 長町裏遠見難波蔵(wikipedia-photo)

[日本橋から南へ、日本橋3~5丁目の堺筋沿いに文字通り細長く伸びる町並みの長町。町に沿って堺へ向かう紀州街道が通るため往来激しく、街道左右には有名な旅籠屋や木賃宿が並びます。またここは傘職人が多く住む町で、天気の良い日には地面に埋めた竹筒に傘を差し込んで乾燥させるのが常でした。現在は電気機器の専門店街となっていますが、高島屋東別館北側に傘専門店が数件残り、わずかに往時の面影をとどめています。
 難波蔵は享保17(1732)~18年の飢饉に際し設けられた幕府直轄の米蔵で、遠方に臨む広大な難波蔵は八棟が並び建つという規模の大きさから名所の一つでもありました。この辺りは樹木が生い茂り、寂寞として閑静な土地でした。明治以降煙草専売局の工場となり、終戦後には大阪球場が作られた場所です。現在は再開発されて「なんばパークス」となっています。  (「今週の今昔館(105) 長町裏遠見難波蔵 20180403」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図をスクロールして、東横堀川と道頓堀川との交点から、左方向・三本目の橋が日本橋で、そこの下方向が長町、左下方向堀川下端に難波御蔵が描かれています。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図四つ切右上、東横堀川と道頓堀川交点から二番目・道頓堀川に「日本バシ」と記述され、そこの右方向が長町になり、右下方向に「難波御蔵」が描かれています。

カメラ位置は日本橋3丁目交差点です。