大官大寺跡

マーカーは大官大寺跡碑・案内碑です。

大官大寺跡
[大官大寺跡は奈良県高市郡明日香村小山に残り、国の史跡に指定されている。寺号の読みは『釈日本紀』に「だいくわんだいじ」とあり、「おほつかさのおほてら」という読みも付されている。文字通り、官立の大寺という意味である。寺跡の北には大和三山のうちの香久山、南には飛鳥浄御原宮跡が位置する。伽藍配置は中門、金堂講堂が南北に一直線に並び、中門左右から出た回廊が金堂に達し、回廊で囲まれた方形の区画の東側(金堂の右手前)に塔が位置する一塔一金堂式であった。廻廊内の西側(金堂の左手前)には建物跡が検出されていない。東西の回廊はさらに北方に続き、講堂の背後で閉じていた。つまり、講堂の周囲は回廊で囲まれていた。塔は方5間(初層平面の1辺に柱が6本立ち、柱間が5間あるという意味)の大規模なもので、伝承のとおり九重塔であったと推定される。
この地には堂跡と塔跡の土壇が残り、ここが大官大寺の跡であるという伝承は近世からあった。幕末から明治初期にかけて、岡本桃里という人物が寺跡を調査した際には、堂跡には45個の礎石、塔跡には心礎と34個の礎石が残っていたが、明治22年(1889年)から始まった橿原神宮の造営工事のために礎石はあらかた持ち出されてしまった。なお、堂跡の土壇については、付近の小字名を「コードー」と言ったことから、講堂跡と見なされていたが、後年の発掘調査の結果、正しくは金堂跡であることが判明している。明治37年(1904年)に本沢清三郎が調査した際には数個の礎石を残すのみであったが、礎石を抜き取った跡の穴は残っていた。本沢が作成した見取り図によると、堂は桁行9間、梁間4間、塔は方5間であった(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
昭和48年(1973年)から同57年(1982年)にかけて奈良国立文化財研究所の行った発掘調査によって、前述のような一塔一金堂式の伽藍配置であったことが確認され、金堂、塔、中門、回廊、講堂のほか、寺域を区切る掘立柱塀の存在も伽藍の東方・西方・北方で確認された。金堂の平面規模は桁行9間(45メートル)、梁間4間(21メートル)、塔は方5間(15メートル)であった。飛鳥時代の他の大寺の金堂の平面が15×11メートル程度、塔が方6.5メートル程度であるのに比べると格段に大規模な伽藍である。寺域は藤原京条坊に合わせて計画され、東が東四坊大路、西が東三坊大路、南が十条大路、北が九条条間路で囲まれた地区に位置していた。発掘に際し、寺域跡からは焼け土や焼けた瓦が検出された。屋根の垂木が焼け落ちて地面に突き刺さった痕跡を残している箇所もあり、中門、回廊などは、建設工事の足場跡の穴にも焼け跡がみられたことから、これらの建物は建設途上で火災に遭ったとみられる。以上のことから、この寺は、金堂などの主要建物がようやく完成し、中門、回廊などは工事中の段階で火災に遭ったことが判明した。さらに出土した土器や瓦(複弁八弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦)の編年から、この伽藍の建立は天武朝まではさかのぼらず、持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された。以上のことから、前述の天武朝に建立された高市大寺とは年代が合わず、高市大寺と大官大寺とは別の位置にあったとする説が有力となっている。高市大寺の所在については不明であるが、香久山の西北、藤原宮の東にあった木之本廃寺が有力候補とされている。
飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(元興寺)、薬師寺、厩坂寺(うまやさかでら、後の興福寺)などは平城京への遷都とともに新都へ移転している。大官大寺も平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。平城京への移転の年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、『続日本紀』の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があるが、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記』によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年(711年)すなわち遷都の翌年に火災に遭ったという。前述の大官大寺跡の発掘調査の結果からも、火災のあったことは確認されている。  (wikipedia・大安寺より)]

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カメラ南西方向が大官大寺跡碑・案内碑です。

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