川原宮跡(川原寺)

マーカーは川原寺(弘福寺)です。

川原寺
[川原寺(かわらでら)は、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に所在した仏教寺院。金堂跡に弘福寺(ぐふくじ)が建てられている。
飛鳥寺(法興寺)薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であったが、中世以降衰微した。川原寺跡は国の史跡に指定されており、現在はかつての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ真言宗豊山派の寺院・弘福寺が建つ。
川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたものと思われるが、正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、「謎の大寺」とも言われている。平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。平安時代最末期の建久2年(1191年)の焼失後は歴史の表舞台から姿を消し、発掘された瓦や塼仏(土で作り焼成した仏像)、堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはない。
川原寺は建久2年(1191年)炎上したことが、九条兼実の日記『玉葉』の記載からわかる。また、延久4年(1070年)の「近江国弘福寺領荘園注進」という史料に、荘園にかかわる文書(もんじょ)が弘福寺(川原寺)の火災で焼けてしまった旨の記載があることから、延久4年以前にも火災のあったことが推測される。川原寺は鎌倉時代にはいったん再興されるが、室町時代末期に雷火で再び焼失し、以後はかつての規模を取り戻すことはなかった。
昭和49年(1974年)、川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。塼とは土製品を焼いたもので、材質的には煉瓦に近い。川原寺裏山からは、縦横とも20cmほどの板状の塼に三尊仏を浮き彫りにした三尊塼仏が大量に発掘されている。塼仏が1箇所から大量に発掘された事例は日本で他になく、その用途ははっきり解明されていないが、仏堂の壁面を塼仏で埋め尽して荘厳していたという説が有力である。
現在、川原寺跡は南大門、中門、廻廊などの旧位置がわかるように整備されている。中金堂跡付近に建つ弘福寺は川原寺の法灯を継ぐ寺院で、重要文化財の木造持国天多聞天立像(平安時代前期)を安置する。
川原寺跡(手前)、弘福寺(奥)・wikipedia-photo

  (wikipedia・川原寺より)]

川原宮
[川原宮(かわらのみや)は、7世紀中期の斉明天皇(655年 – 661年)が営んだ宮。一般には飛鳥川原宮と呼称される。奈良県明日香村川原に現存する弘福寺(川原寺)の地にあったと伝えられている。
日本書紀によると、655年の冬、板蓋宮が火災に遭ったため、斉明天皇は川原宮へ遷ったとある。その翌年(656年)には新たに岡本宮を建てて遷宮しているので、一時的な仮住まいの宮殿だったと考えられる。
斉明天皇の没後、斉明天皇の子である天智天皇のときに川原宮は川原寺(かわらでら)へ改められたとされている。平安時代初期には、嵯峨天皇空海へ同寺を与えたという。現在は真言宗で仏陀山弘福寺と称している。
かつてそこに川原宮があったと伝わる川原寺跡・wikipedia-photo

  (wikipedia・川原宮より)]

川原寺(弘福寺) -Google Map 画像リンク

カメラ北方向が弘福寺です。

カメラ位置は弘福寺跡です。

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