飛鳥宮跡(飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)

マーカーは飛鳥宮跡です。

飛鳥宮跡保存活用構想検討報告書 – 明日香村

飛鳥宮跡
[「伝飛鳥板蓋宮跡」という名称で史跡指定された遺跡を含む、明日香村大字岡に所在する宮殿遺跡。指定後の継続的調査で、7世紀代の宮殿遺構の広がりが重層して確認されている。これらの空間的広がりと時期変遷を含めた全体を本書では「飛鳥宮跡」と総称するものとする。
■飛鳥宮の重複する遺構と対応する宮名
飛鳥宮跡は3つの宮殿遺構が重複している。これらを下層からⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期と区分している。出土遺物などの検討から、Ⅰ期は飛鳥岡本宮(630 年~)、Ⅱ期は飛鳥板蓋宮(643 年~)、Ⅲ期は後飛鳥岡本宮(656 年~)、飛鳥浄御原宮(672 年~)とみられており、Ⅲ期の後飛鳥岡本宮の時代をⅢ-A期、飛鳥浄御原宮の時代をⅢ-B期としている。  (「飛鳥宮跡保存活用構想検討報告書」より)]

岡本宮
[岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇(629年 – 641年)及び斉明天皇(重祚・655年 – 661年)が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。
舒明天皇の岡本宮(Ⅰ期)
629年1月に舒明天皇は小墾田宮で即位し、翌年(630年)10月、飛鳥岡(雷丘)のふもとに遷宮し、岡本宮と称した。
その6年後の636年6月、岡本宮は火災で焼失し、舒明天皇は田中宮(たなかのみや、現在の橿原市田中町)へ遷ることとなった。
斉明天皇の後岡本宮(Ⅲ-A期)
655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
しかし同年、この新しい宮も火災に遭う。当時、斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたり、奈良盆地に運河を掘るなど、多くの土木事業を営んだが、動員される民衆には非常に不評であった。このために放火されたのではないかとする説も出されている。(飛鳥時代の宮の多くが火災に遭っていることから、民衆の中に統治への大きな不満がある時は、天皇の宮へ放火することで意思表明していたのではないか、とする説がある。)  (wikipedia・岡本宮より)]

板蓋宮(Ⅱ期)
[板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀中葉に皇極天皇(642年 – 645年)が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。
642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。643年(皇極天皇2年)4月、遷る。
板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺されるという凶行がなされ、これにより皇極天皇は同月12日(14日)に退位し、事件の真の首謀者と目される軽皇子が即位することとなった(孝徳天皇)。孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた(難波長柄豊碕宮)。
654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。
なお、名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。このことにより、当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。実際にも檜皮葺や茅葺きの建物物は現代に至るも遺っているものが多いが、板葺きの建築物が遺っている例は少ない。
当時、大陸から伝来した最新様式を反映している寺院は瓦葺きであったが、それ以外の建築物への普及は進まず、平安時代以降の貴族の居宅である寝殿造も檜皮葺である。本格的な瓦葺きの普及は江戸時代以降である。
現在、奈良県明日香村に中心の一部と思われるものが史跡として残っている。また、近くには蘇我入鹿首塚もある。
全景・wikipedia-photo、全景・wikipedia-photo  (wikipedia・板蓋宮より)]

飛鳥浄御原宮(Ⅲ-B期)
[飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇(673年 – 686年)と持統天皇(690年 – 697年)の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。
日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」とある。また、朱鳥元年七月の条に「元を改めて朱鳥(あかみどり)元年という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」とある。これを信じれば、「飛鳥浄御原宮」という宮号は天武十五年(朱鳥元、686)に名づけられたことになり、672年12月~686年7月までは、この宮の名がなかったことになる。
飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。
大化前代の宮(皇居)は、多く飛鳥地方の中で天皇の代ごとに移っていた。しかし、大化の時に孝徳天皇(645年 – 654年)は難波(なにわ)に長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)を造り、天智天皇(668年 – 672年)は近江大津宮に移った。
672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇(672年1月9日 – 672年8月21日)の都であった近江国滋賀県)の近江大津宮から飛鳥に都を戻すべく、この宮を造営した。翌673年に大海人がこの宮で天武天皇として即位して以降、天武天皇とその夫人で次の天皇となった持統天皇が、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。694年に藤原宮に遷都され、廃止された。
日本最初の律令である飛鳥浄御原令もここで編纂された。
7世紀に編纂された『日本書紀』から、内安殿など様々な名前をもった殿舎が飛鳥浄御原宮に存在したことが判明している。2004年、飛鳥京跡の発掘を進めていた奈良県立橿原考古学研究所は、大型の高床式建物跡を発見し、飛鳥浄御原宮の「正殿」であったと判断した。宮域は、南北800メートル、東西500メートルくらいの範囲に収まる。  (wikipedia・飛鳥浄御原宮より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「誰をかも待乳(まつち)の山のをみなへし秋と契れる人ぞあるらし 小野小町」(5-28)

[[歌枕]として使われる、待乳山(真土山)は奈良県五條市和歌山県橋本市との境にある山で吉野川(紀ノ川)北岸にある。をみなへし(オミナエシ・女郎花)は花期は夏から秋にかけて(8 – 10月)、茎の上部で分枝して、花茎の先端に黄色い小花を平らな散房状に多数咲かせる。小野小町平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、図会は平安時代の宮廷生活を描いていますが「大和名所図会」では高市郡(明日香村)の項に挿絵されていますので、このページに張り付けています。]

伝飛鳥板葺宮跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が伝飛鳥板蓋宮案内板で、カメラ西北西方向が飛鳥宮跡になります。

カメラ位置は飛鳥宮跡で、カメラ東方向に伝飛鳥板蓋宮案内板があります。

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