檜隈安古陵

マーカーは檜隈安古陵です。

檜隈安古陵
[解体工事に向けて発掘調査が行われている高松塚古墳の南方に鬱蒼とした森が存在しています。ここは現在、宮内庁によって文武天皇檜隈安古陵(ひのくまあこのへのみささぎ)に治定されています。
この文武天皇については天武天皇持統天皇の孫で『続日本紀』によると慶雲4(707)年6月15日に亡くなっています。そして同年11月12日には飛鳥の岡で火葬され、同月26日に檜隈安古陵に葬られたことが記されています。平安時代に記された『延喜諸陵式』にも「檜前安占岡上陵」に葬られたことが記されています。実際、「安古」と呼ばれた場所が檜隈のどこかはっきりしたことがわかりませんが江戸時代には高松塚古墳の周辺と考えられていたことが文献史料等から伺えます。それは京都所司代の命を受けた奈良奉行所が文武陵を探索した結果、高松塚古墳がその候補に挙がり元禄11年に墳丘の周囲に竹垣を巡らしています。また並河永は『大和志』の中で中尾山古墳こそが文武陵であると考証しています。更に『大和名所図会』には両方の説を採用するなど高松塚古墳周辺が注目されていたことがわかります。その後、谷森善臣が御園村の小字名から「アンドク=アンコウ=安古」であるという説を出してからは現在の場所が最有力候補地となり、明治14年に文武天皇檜隈安古陵に治定され現在に至っています。この現文武陵については飛鳥にある天皇陵とされる古墳のすべてが八角形墳であることや文武天皇が火葬されていることなどを考慮すると現陵と考えるよりも北方にある中尾山古墳の方が有力です。中尾山古墳は対角長19.4mの八角形墳で一辺90cm四方の石槨内には骨蔵器が納められていたと考えられています。この骨蔵器は現在失われていますが明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺が本来、中尾山古墳から出土したものではないかと推定されています。このように現文武陵は一度破壊された古墳を修復して陵墓に治定されていることや古墳の立地や埋葬施設の形態等から判断して中尾山古墳の方が文武天皇の檜隈安古陵の蓋然性が高い古墳と考えられます。  (「檜隈安古陵|その他|調査報告等 |発掘情報 – 明日香村」より)]

檜隈安古陵 | 明日香村 公式ホームページ

文武天皇 檜隈安古岡上陵 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向が檜隈安古陵参道です。

カメラ北北西方向が文武天皇檜隈安古陵です。

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