飛鳥寺(法興寺)

マーカーは飛鳥寺(法興寺)です。

飛鳥寺(法興寺)
[飛鳥寺(あすかでら)は奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派
飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日本最古の本格的仏教寺院である。
山門・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

釈迦如来像(飛鳥大仏)・wikipedia-photo

創建時の法興寺の伽藍の模型。橿原市藤原京資料室蔵藤原京1/1000模型の一部。wikipedia-photo

  (wikipedia・飛鳥寺より)]

[飛鳥寺
 飛鳥寺は奈良県高市郡明日香村飛鳥にあり、蘇我氏の氏寺であるとともに、日本で初めて造られた本格的な寺院です。
 現在、その地には安居院(あんごいん)という寺院が飛鳥寺の中金堂があった一角に建っており、そこに安置されている仏像は、飛鳥寺創建時の本尊である通称「飛鳥大仏」とよばれる釈迦如来坐像です。
1.名称の変化と飛鳥寺のその後
 当初、「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの名称でよばれていたこの寺院は、『日本書紀』の記述では「飛鳥寺」という名称が多く使われていました。このことから、一般的には「飛鳥寺」とよばれていたと考えられます。平城遷都の8年後、飛鳥寺は平城京に移り、「元興寺」となります。
飛鳥に残った寺院は、「本元興寺」という名でよばれ、そのまま飛鳥の地に残されました。奈良時代以降、飛鳥寺に関する資料は乏しく、735( 天平7) 年の斎会、748( 天平 20) 年の元正天皇の初七日の誦経のほか、十五大寺の1つとして疫病や旱魃の終息や豊作の祈願などがみえますが、かつての姿はなかったと思われます。その後、鎌倉時代には落雷で焼失したりしますが、江戸時代に至るまで、年月とともにその荒廃はひどく、ただ飛鳥大仏だけが、石の台座に残されていたそうです。1632( 寛永9) 年にある夫婦が小さい仏堂を寄進し、その後、香久山にあったお寺の僧が飛鳥寺に隠居して、寺号を「安居院」と改め、破損していた飛鳥大仏を補修しました。それが、現在の真言宗安居院につながるようです。
2.仏教公伝と仏教の受容
 日本に仏教が公式に伝えられた時のことは史書に記載されています。『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)によると 538 年、『日本書紀』では552 年と伝わった年に違いがありますが、百済聖明王から釈迦如来像と仏具・経論が贈られてきたことが記載されています。
 欽明天皇は、大臣蘇我稲目にこの時に贈られた仏像の安置と礼拝を許しましたが、仏教の受け入れに反対する大連物部尾輿の讒言により、破却されました。そして、稲目の子の蘇我馬子も仏教を受け入れようとしましたが、585( 敏達 14) 年に再び弾圧を受けました。このような仏教を受容しようとする蘇我氏と排除しようとする物部氏の対立は、ついに587( 用明2) 年、皇位継承争いと連動して武力衝突に及びました。馬子はこの戦いに臨んで、寺院建立と仏法流布を誓い、物部守屋を滅ぼすと崇峻天皇を擁立し、飛鳥寺の建立に着手しました。
 そして、仏教は645( 大化元 ) 年8月に至り、孝徳天皇は、これまでは蘇我氏が主導してきた仏教興隆を今後は大王家が引き継ぎ、寺院造営を援助すると宣言しました。仏教が日本に伝えられてから約 100 年後、ついに仏教が公に認められることになりました。
3.飛鳥寺造営経緯
 飛鳥寺造営の経緯は、『日本書紀』や『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』(がんごうじがらんえんぎならびにりゅうきしざいちょう – 以下、『元興寺縁起』)にみられます。それらによると、蘇我馬子は飛鳥真神原にあった 飛鳥衣縫樹葉(あすかのきぬぬいの このは)の家を壊して、造営を開始し、それから約 20 年をかけて完成しました。  (「飛鳥寺 解説書(PDF) – 明日香村」より)]

飛鳥寺西方遺跡 – Google Map 画像リンク」、「飛鳥寺西門跡 – Google Map 画像リンク」、「飛鳥寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が飛鳥寺(法興寺)山門です。

カメラ南東方向が飛鳥寺(法興寺)西門です。

カメラ北方向が本堂です。

「飛鳥大仏」前のカメラです。

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