木村家住宅(河内木綿)

マーカーは木村家住宅です。

木村家住宅
[木村家住宅は、八尾市東本町2丁目に所在の、近鉄八尾駅から南に約200mのところにあります。東西に走る道路(東は立石街道、西は常光寺に通じる)の南側に屋敷地を構えます。南方近くに国登録有形文化財の桃林堂板倉家住宅があります。周辺は市街化が進むものの、八尾寺内町の東に隣接する江戸時代の東郷村にあたる地域です。
木村家住宅は、江戸後期から明治後期にかけての河内木綿商の屋敷として建築されたもので、つし二階の『主屋』や『土蔵』、『本蔵』、『茶室』などの主要建物は、江戸時代の木綿商人の建築形態をよく残す貴重な建築群です。特に、敷地中央の『主屋』と西隣の『土蔵』は道路に面しており、江戸時代の歴史的景観を今に伝えています。【非公開】  (「木村家住宅(東本町二丁目) 国登録有形文化財(建造物)に」より)]

河内木綿
[江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。これらを総称して「河内木綿」といいます。
河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。
しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。
長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。  (「河内木綿 | 八尾を知る」より)]

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「高安の里の木綿買(5巻5)

[上の図は、江戸時代後期(18世紀はじめ頃)の高安の里(現八尾市東部)で木綿織りと木綿売買をしている家の様子を描いたものです。機を織る女性、織りあがった反物を売買している男たち、糸車を持参して通ってくる娘さんなど、木綿の生産や売買に携わっている人々が登場しています。江戸時代、河内での木綿生産が盛んであった時代のひとコマです。  (「(1)河内木綿とは」より)]

カメラ南南西方向が木村家住宅です。