木津川川口遠見番所跡碑

マーカーは木津川川口遠見番所跡碑です。

木津川川口遠見番所
[木津川大坂の経済を支える大動脈として諸国の出入りで賑わいました。当地は、昔、「姫島」と呼ばれておりましたが、義民として名高い中村(木津)勘助が、慶長15年(1610)に豊臣家のために軍船系船所の建設や船着場の整備等を行い、その功により「勘助島」と名付けられました。
江戸時代になって、幕府は宝永5年(1708)に「木津川川口遠見番所」を現在地に設けました。
また西方には幕府の官船等を収容する「御船蔵」がありました。
大坂の島と言われた当地と都心をつなぐルートとして、大正4年(1915)市電開通とともに架けられた大正橋は、当時わが国最長のアーチ橋で、当区名の由来ともなっております。新橋が昭和49年に完成、下流側の高欄には、ベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされています。
なお橋の東側にある「安政津浪遭難者供養碑」は、安政元年(1854)に木津川一帯を襲った安政の大津波の惨状を述べるとともに、最後に「後人の心得・・・願わくば心ある人、年々文字読み安きよう墨を入れ給うべし」と記しており、大坂人の心情を表しています。    大阪市  (「続・竹林の愚人 御船蔵跡」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を下にスクロールし、そこから右方向、尻なし川と木津川の間に勘助嶋と記述されています、そこの右上「番所」と記述され、木津川川口遠見番所が描かれています。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図四つ切右下、尻無川右に「御舩蔵」、その右に「勘助嶋田地」と記述され、その上方向木津川下に木津川川口遠見番所が描かれています。

カメラ北西方向・公園灯左方向に木津川川口遠見番所跡碑があります。