村風・村雨の墓

マーカーは村風・村雨の墓です。

村風・村雨の墓
[この二基の五輪塔は、松風・村雨の墓碑と伝えられています。
松風・村雨の姉妹は、謡曲松風」を初め、多くの文学にとりいれられ悲しい物語として有名で、次のように伝説で広く世に知られています。
在原行平(ありはらのゆきひら)は仁和三年(八八七年)光孝天皇の怒りにふれ須磨の地に配流され寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた多井畑の村長の娘 ”もしほ„ ”こふじ„ の姉妹をいとおしく思い松風・村雨の名を与え寵愛した。三年の歳月がたち、許されて京都に帰るとき行平は、小倉百人一首で有名な
  『立ち別れいなばの山の峰に生ふる
          まつとし聞かば今かへり来む』 
の歌を残し烏帽子狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を祀り、行平の無事を祈っていたが、後、多井畑へ帰りわびしく世を去った。
現在須磨には松風町、村雨町、衣掛町などの町名が残っています。
      令和元年六月吉日  正木 勲  (松風村雨の墓 – Google Map 画像より)]

鏡の井
[在原行平と松風・村雨の伝説に関する場所として神戸市須磨区多井畑には、その二人の姉妹、「松風」と「村雨」がここに来て水面に写る姿を見て、化粧をしたという「鏡の井」と呼ばれる泉があります。  (「在原行平と松風・村雨の伝説 鏡の井 – 須磨浦商店街」より)]

鏡の井 – Google Map 画像リンク

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「11巻43・多井畑八幡宮

[図会右ページに多井畑厄除八幡宮、左ページに田(多)井畑村が描かれ、その間に松風やしき跡と記述され、その下に鏡の池、上に松風村雨墓、左田(多)井畑村内に田井畑鷲尾の旧蹟、その左に摂津播磨国境と記述されています。]

村風・村雨の墓と碑前のカメラです。