松島橋(旧寺島・造船所・沙魚(はぜ)釣り)

マーカーは松島橋です。

松島橋
[旧松島(西区本田一丁目)辺りは、尻無川の分流点にあたり、江戸時代には寺島と呼ばれていた。川沿いには造船所が多く、時々進水の祝いがあって賑やかであったという。寺島の北端には松の古木があって松の鼻とも呼ばれ、この風景を賞するため遊客を乗せた船が集まった。
 明治の初めに川口に居留地が造られたこともあって、松島には市中の遊所を集めて、大阪最大の遊所が開かれた。この開発を促進するため明治2年に松島橋が架けられた。この橋は明治18年の大洪水によって流されたため、直後に鉄杭をもった木桁橋が架けられた。
 松島橋が現在のような近代橋になったのは、戦前の都市計画事業である。3径間のゲルバー式の鋼桁橋という当時の一般的な形式が採用されている。  (「松島橋(まつしまばし) – 大阪市」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「3巻55・寺島新艘舩卸

[上の挿絵は木津川の西岸、寺島での大船の「船卸(ふなおろし)」の様子です。船の舳先(へさき)には住吉大神への御供(ごく)が供えられ、船上からは餅が撒かれ、新船の竣工を祝っています。
下の挿絵は、川口に小舟が集まり、沙魚(はぜ)釣りをしている情景です。初心者でも簡単な沙魚釣りは、秋の風物詩として人々に親しまれていたようです。いずれも淀川などの水源に恵まれ、造船業や農漁業が盛んだった摂津国の豊かな地勢、国力を感じさせます。  (「『摂津名所圖会』 | コレクション – 印刷博物館」より)]
2巻56・秋興沙魚釣

[尻無川堤の秋は櫨ならぬ沙魚「はぜ」釣りでも有名でした。夙に寛政年間刊の『摂津名所図会』巻三に「秋興沙魚釣」と題する絵が見開きで載ってました。
画讃に
「沙魚つりや 水村山郭 酒気の風 嵐雪」とありました。  (「尻無河畔秋興(2) | 晴耕雨読 -田野 登- – Ameba」より)]

歌川國員/画 松のはな(wikipedia-photo)

[安治川より別れて南下する木津川は、現在の松島公園の北側付近で分流して尻無川となります。この辺り一帯は船大工が多く、造船業の集まるところでした。分流点の岸は、突端には水面に枝を大きく垂らす見事な松の名木があったことから「松の鼻」「松が鼻」と呼ばれていました。
 江戸時代には樹齢300年と称する名松を目当てに舟行の客が繰り出し、松を愛でながら酒宴を催すほどの水辺の景勝地として親しまれました。この二つの川に挟まれた一帯は明治元年(1868)松の鼻に因んで寺島から松嶋と改称、以降遊廓として栄えました。
 松は大正年間(1912~26)に枯れてしまい、尻無川は同じ頃現在の流路(岩崎運河)に付け替えられ、元の流路は戦後に埋め立てられました。  (「今週の今昔館(207) 松ヶ鼻大わたし 20200317」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を下にスクロールし、九条嶋の右方向にスクロールすると尻なし川、寺島が描かれています。

カメラ位置は木津川松島橋で、カメラ北西方向が西区本田一丁目(旧松島)になり、この付近が造船所になります。旧松島の西側に尻無川があります。