マーカーは柿の木地蔵です。
柿の木地蔵
[むかし、切出した御影石や水車場からの米を積んだ牛車が行き来していたころ、交通安全を祈ってまつられたもので、側に柿の木が繁っているところから「柿の木地蔵」の名で親しまれている。現在の地蔵尊は大正10年ごろに再建されたものであるが、台座は当時のもので「嘉永六年丑正月廿二日」と刻まれている。
東灘区役所 (柿の木地蔵 – Google Map 画像より)]
[御影石と石切り場
六甲南麓に産する花崗岩は早くから良質の石材として利用され船積みされた地名をとって、花崗岩一般を御影石と呼ぶほど、世に知られている。
主産地の御影・住吉でいつ切り出しが創められたかわからない。が、豊臣秀吉の大坂築城に際しては付近の山中から石が搬出され、それに続く京の三条・五条の大橋かけ替えに利用された石材も、この地で切り出されたとされる。『津国御影、天正十七年』と刻んだ橋脚石材が、今も京都国立博物館や平安神宮苑に保存されている。
全盛期の享保・宝暦期には、荒神山・重箱山・五助山などに採石場が開かれ、麓の石屋村(今の御影石町)は石工の村としてさかえ御影の浜から船積みされた石は各地に売り出された。寛政十一年(一七九九)の『日本山海名産図会』はこのあたりの石の特質や切り出し法などをよく伝えている。
※伝え文省略
明和七年(一七七〇)大坂の石問屋株仲間の出現、さらに大正以来のセメントの進出などで御影石の切り出しは衰えていった。
荒神山中の石切り場や、山中の石切り道・石屋川などは、往時の産石をうかがわせる地名である。付近に古い石造美術品はあまり遺されておらず、住吉町小林墓地の文禄三年(一五九四)の地蔵尊が、今のところ東灘区では最古の在銘遺品である。 (「近 世 – 神戸市」より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻35・武庫山石切出し」
「摂州御影石」(「日本山海名産図会. 巻之1-5 / 法橋関月 画図」 – 「 2巻 – 8p 」)
柿の木地蔵と案内板前のカメラです。
カメラ南方向・山田区民会館西側に灘目の水車が復元されています。(Google Map)