マーカーは栄山寺です。
栄山寺
[栄山寺(えいさんじ)は、奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂により創建された。山号は学晶山(がくしょうさん)。本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。
現代の五條市にあたる地域は古代には阿陀郷と呼ばれた。「阿陀」の地名は『万葉集』にも見え、式内社(『延喜式神名帳』に記載された神社)の阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)があるなど早くから開けた地域であったと思われる。
栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されている。
現存する八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山(奈良市街地北部の丘陵地)にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764年)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763年)12月20日付けの「造円堂所牒」(ぞうえんどうしょちょう)という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
栄山寺は役小角の修行地とも伝えられ修験道にも関係があったが戦国時代末期には八角堂を除く堂坊を焼失した。その後、本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建され、さらに塔頭六宇が再建された。
寺は元来は興福寺の末寺であったが江戸時代初期に一時無住寺となり、その後泉涌寺別院雲龍院(京都市東山区)の末寺となり、さらに護国寺(東京都文京区)の末寺となった。現在では塔頭も梅室院のみが残っている。
本堂
天文22年(1553年)の再建と伝える。金堂または薬師堂ともいい本尊の木造薬師如来坐像(重文)、脇侍の日光菩薩、月光菩薩などを安置する。天部立像は平安時代後期の作。
塔ノ堂(大日堂)
大日如来像を安置。塔ノ堂前に凝灰岩製の石造七重塔(重文)がある。
八角堂(国宝)
天平宝字4年から8年(760年-764年)の建立と推定され、藤原武智麻呂の菩提を弔うために子の仲麻呂が建立したと伝えられる本瓦葺の八角形の建物。平城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築として稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築である。外観は平面八角形であるが、内部の身舎(もや)は四角形であり、内陣周囲に立つ4本の八角柱が構造上の要となっている。屋根は明治44年(1911年)の解体修理以前には草葺きであったものを修理に際して瓦葺きに推定復元したものである。屋根上の宝珠は修理の際に復元したものだが、当初のものとされる石造宝珠残欠が別に保存されている。内部の4本の柱と上部の飛貫(ひぬき)、天井の彩色絵画は剥落が甚だしいとはいえ、奈良時代絵画の遺品として貴重なもので、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。柱には楽器を奏する菩薩像、飛貫には飛天や人面をもつ鳥などが描かれている。本尊は大日如来坐像。
梵鐘(国宝)
銘文から延喜17年(917年)の製作とわかる。京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られているもので、四面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されている。藤原武智麻呂の5世の孫である藤原道明と道明の伯父の橘澄清によって寄進されたもので、当初は山城道澄寺にあった。道澄寺は藤原道明と橘澄清の名の1字ずつを取って寺号としたもので、寺は京都市伏見区深草直違橋(すじかいばし)に現存する。
本堂と石灯籠(重文)・wikipedia-photo
八角堂(国宝)・wikipedia-photo
八角堂装飾画 音声(おんじょう)菩薩・wikipedia-photo
栄山寺梵鐘(国宝)・wikipedia-photo
栄山寺石塔婆(重文)・wikipedia-photo
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栄山寺山門前のカメラで、後方に本堂がありますが、参道口は境内西端になります。
八角堂(国宝)前のカメラです。
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「栄山寺吉野川」(5-24)
[奈良県内では吉野川、和歌山県に入ると紀ノ川と称される一級河川では、江戸時代、吉野の山で育った良質の杉・檜などを乗せた材木運搬の筏が盛んに行き交いました。山から伐り出された木は、樹種別・材種別にされて、藤のつるで筏に編んで流されました。筏を編む技術は特別だったようで、「編み師」と呼ばれる専門職があったようです。挿図に描かれているのは、吉野川の急流でも岩場でもなく、悠々とした流れに乗る筏。絵の左手から右へ進行中です。左手前にあるのは榮山寺。このあたりの流れは穏やかで、『大和名所図会』本文には「(榮山寺の)前なる川の水流見わたす所、前後十二町の間、四時常に浪たたず、水面静なり。世の人名けて音無川といふ。」と紹介されています。川に立つ波も瀬の音もなく、だから「音無川」と。吉野川の特定の区間の呼び名であって、川の名称ではありません。絵にある筏に乗る2人の漕ぎ手(棹をさす人)は足を踏ん張っていますが、左の筏で薪に腰かけている男は手ぬぐいでほっかむりをし、煙草をふかし、余裕が感じられます。ベテランの船頭なのでしょうか。穏やかなスピードと揺れを楽しんでいる様子です。
榮山寺(五條市小島)は奈良時代の719年創建の古刹。藤原氏(南家)の菩提寺で、藤原仲麻呂が建てた奈良時代の八角円堂は国宝です。また「天下三名鐘」のひとつとされ、菅原道真と小野道風ゆかりの銘文が刻まれている梵鐘も有名です。挿図では、吉野川のそばにあるように思われますが、現在は県道39号(五條吉野線)を挟んだ位置にあります。吉野川の筏流しは11月中旬から行われ、水をかぶるには冷たい季節。しかし、絵では榮山寺境内から松と梅が枝を伸ばしており、梅はチラチラと開花していそうに見えます。そうだとすれば、絵は早春3月ごろの風景。小春日和だったのかもしれません。吉野川の筏流しは昭和30年代まで、吉野川の風物詩として続けられました。岸を進む駕籠の乗客、後ろに続く菅笠姿の旅人も、筏流しを観賞しながら、煙草をふかしています。この時代、喫煙率が高かったのでしょうか。 (「『大和名所図会』今昔めぐり 25 榮山寺門前音無川(巻之五)」より)]
カメラ北東方向が栄山寺参道で、カメラ南方向が吉野川の音無川部分です。