戒重陣屋跡(春日神社)

マーカーは春日神社です。

戒重藩(芝村藩)
[芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。
藩政の基礎は初代藩主・織田長政の頃に固められた。第4代藩主・織田長清の頃には長清自身が優れた文化人であったことも影響して藩校遷喬館が設立され、藩士に文武が奨励され、さらに長清によって織田氏信長の記録である織田真記15巻が編纂されるなど、芝村藩は全盛期を迎えた。長清は陣屋を戒重から岩田に移そうと願い出て宝永元年(1704年)4月11日に認められたが、しかし長清の治世末期頃から財政悪化が表面化し実現しなかった。正徳3年(1713年)9月27日に岩田村を芝村に改めたのち、実際に陣屋が芝村陣屋(桜井市織田・現在の市立織田小学校)に移転したのは、第7代藩主・織田輔宜の代である延享2年(1745年)閏12月12日のことである。ちなみに長清以来の歴代藩主が陣屋の移転にこだわったのは、戒重が年貢収納に不便な土地だったのに対し、芝村(岩田村)が藩領の中心地で何かと便利だったためである。  (wikipedia・芝村藩より)]

春日神社・訳語田幸玉宮 伝承地(桜井市戒重) – 一般 … – 桜井市観光協会」(この紹介ページには戒重陣屋については一切記述されていない。)

戒重春日神社 – Google Map 画像リンク」、「大和戒重陣屋跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向は春日神社で、戒重陣屋はこの付近一帯に築かれていたようです。

[織田有楽斎長益は、織田信長の弟の一人であるが、信長とは年齢が13歳離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。
本能寺の変の際は、織田信忠とともに二条御所にあったが、長益自身は城を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされる。変後は甥の織田信雄に仕え、検地奉行などを務める。
天正18年(1590年)の信雄改易後は、豊臣秀吉御伽衆として摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2,000石を領した。この頃、剃髪して有楽斎と称す。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。
秀吉死後、徳川家康前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護している。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男・長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦。戦後にその功績を認められ、有楽斎は大和国内で3万2,000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられた。
戦後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐した。大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。
大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、有楽斎本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年75。
四男・長政と五男・尚長は元和元年(1615年)に父が隠棲した際に、有楽斎が大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。長政が戒重藩(後の芝村藩)、尚長が柳本藩の藩祖であり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いた。なお、有楽斎自身が隠居料として取った1万石は有楽斎の死とともに江戸幕府に収公されている。  (wikipedia・織田長益より)]