久米寺

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久米寺
[久米寺(くめでら)は、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院久米寺と称する。本尊薬師如来坐像。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)ともいうが未詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。
大和七福八宝めぐり(三輪明神長谷寺、信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院おふさ観音談山神社、久米寺)の一つに数えられる。
仏塔古寺十八尊第9番。
大和三山の1つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。
『和州久米寺流記』には来目皇子の開基を伝える。一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙人と結び付けている。久米仙人の伝説がフィクションであることは言うまでもなく、創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思われる。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を感得(発見)したとされている。空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には、「来眼精舎」(くめしょうじゃ)として言及されており、空海とも関係があったと思われる。
なお、橿原市の隣の明日香村奥山に「奥山久米寺跡」があり、この寺についても来目皇子創建とする伝承がある。
建造物
●本堂 – 寛文3年(1663年)建立。
多宝塔重要文化財) – 万治2年(1659年)京都・仁和寺より移築されたもので、桃山様式を残す。
●隣接する久米御縣神社は、江戸時代までは久米寺の鎮守社となっていた。  
山門・wikipedia-photo
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本堂と鐘楼・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

多宝塔・wikipedia-photo

  (wikipedia・久米寺より)]

久米寺多宝塔
[雷火で消失した当初の塔の代わりとして、京都仁和(にんな)寺から移築され、1985年(昭和60)の解体修理時に現在の場所に移されました。修理に際して、部材からは建立当初の番付(ばんづけ)に加えて、解体時、運搬時の番付などが見つかったことから、移築が裏付けられました。建立年代は、様式手法から江戸時代初期と考えられます。頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)、須弥壇(しゅみだん)など細部に禅宗様(ぜんしゅうよう)が濃厚です。当初材をよく保持し、京都風のおだやかな手法を持ち、均衡のとれた多宝塔です。  (「橿原市/久米寺多宝塔」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「久米寺」(5-57)

久米の仙人」(5-59)

久米寺多宝塔 – Google Map 画像リンク」、「霊禅山 久米寺 – Google Map 画像リンク」、「久米寺大塔跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が久米寺山門です。

久米寺多宝塔前のカメラです。

久米寺本堂前のカメラです。