マーカーは大窪寺跡塔心礎です。
大窪寺跡
[大窪寺跡は、奈良県橿原市大久保町にある古代から中世の寺院跡。史跡指定はされていない。
跡地付近に所在する浄土宗の国源寺観音堂が法燈を継承するとされ、同寺の境内に伝世される塔心礎は大窪寺のものと推定される。
歴史
創建は不明(出土瓦によれば白鳳期か)。史書には大窪史(おおくぼのふひと、大窪氏)一族の記載が見え、大窪史と大窪寺の関係を推測する説(一説に氏寺)もある。
古く『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月21日条には、桧隈寺(寺跡は明日香村檜前)・軽寺(寺跡は橿原市大軽町)・大窪寺の3寺に30年を限とする封100戸の寄進の記事が見える。持統天皇 8 年( 694 年)の藤原京遷都後は、寺域はその京域内に所在した。また延久 2 年( 1070 年)の「興福寺雑役免帳」に大窪寺領の記載があるほか、室町時代の「越智郷段銭帳」にも「大窪寺 四町八段半」とあり、鎌倉時代末頃までの存続が確認される。その後、『大和志』や文政 12 年( 1829 年)の『卯花日記』では、跡地の様子が記述されている。
大窪寺の寺跡に建てられている国源寺は、建久 8 年( 1197 年)の『多武峯略記』によれば、円融天皇の時に神武天皇の神託により創建されたものと伝わる。また文治 3 年( 1187 年)に光慧により再興された頃には、国源寺は御陵寺としての性格を有したという。その後、嘉吉年間(1441-1444年)頃に興福寺晨勝院の末寺に入り、8坊を有した。現在は正安 4 年( 1302 年)の作になる木造聖徳太子立像(奈良県指定有形文化財)を伝世する。
なお、大窪寺の推定寺域内では、 1990 年(平成 2 年)に塔心礎付近で発掘調査が実施されている。
伽藍
伽藍配置は不明。国源寺観音堂境内に所在する塔心礎の位置等から、金堂は現在の国源寺付近に推定される。
1990 年(平成 2 年)に実施された発掘調査では、心礎南側に土坑が、周辺に掘立柱建物の柱穴が検出されている。ただし、柱穴は土坑と異なる時期の、大窪寺ないし藤原京の建物跡とされる。
出土遺物のうちでは、特に単弁有子葉蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦がある。なお、『卯花日記』では礎石が散在する旨が記されているが、現在は塔心礎以外の所在は不明。
塔心礎(手前)・国源寺観音堂(奥)・wikipedia-photo
(wikipedia・大窪寺跡より)]
「国源寺 – Google Map 画像リンク」「大窪寺 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向御堂右に大窪寺の案内板(画像リンク)があります。また、カメラ南方向垣根向こうの植え込み付近に塔心礎があります。