マーカーは春日神社です。
今井町平面図・wikipedia-photo
1.今西家、2.豊田家、3.中橋家、4.上田家、5.音村家、6.旧米谷家、7.河合家、8.高木家、A.八幡神社、B.順明寺、C.蓮妙寺、D.西光寺、E.春日神社、F.称念寺、W.西町、S.南町、N.北町、O.東町、I.今町、Ne.新町
春日神社
[今西家の旧宅地で常福寺の鎮守のために創建された。創建年代は明らかでないが、現存の当社石灯籠中最古の狩野形石灯籠の銘に「慶安五壬辰年(1652年(承応元年))仲春吉日 春日大明神奉寄進石灯籠 願主和州高市郡今井東町」とあることからそれ以前に建っていたとみられる。その後、1735年(享保20年)に再建されたとみられる。境内には石灯籠を含めて49基が奉納されているが、慶安五年に続くものは今井中町と西町今西正利奉納の1653年(承応2年)仲冬吉日とあるもの、1654年(承応3年)五月吉辰日に今井東町尾崎源八と同南町尾崎七左衛門とが寄進した遺品。外に1661年(寛文元年)・1740年(元文5年)・享保(1716年~1736年)・明和(1764年~1772年)・安永(1772年~1781年)・享和(1801年~1804年)・文化(1804年~1818年)から明治に及ぶ。手水舎は1836年(天保7年)のもので、堺の商人たちが願主で、本殿前の狛犬は、大坂の商人の奉納であり、石灯籠などに堺や大坂の商人の名前を記すのは、今井町と堺・大坂商人との深い交易関係を示すのものと言える。例祭(産土宮祭うぶずなみやまつり)はもと旧暦9月25、26日であったが今はこの日に近い土・日曜日に行われる。戦前は宮元の西町はじめ南町、東町、北町、新町、今町、材木町など7町から地車(だんじり)が7台出て、広庭の各所所定の場に勢揃いし、今井町内を練りまわった。江戸時代初期の西町と南町のだんじりが2台あったが岸和田市に売却し、新調した。昭和の「宗教法人法による届出書」によると氏子850世帯、崇敬者4000人、境内地897坪官有地第一種と出ている。
春日神社・wikipedia-photo
旧常福寺観音堂(市指定文化財)- 1613年(慶長18年)の建立。慶長18年7月16日癸丑の棟札残っている。1681年(天和元年)天台宗多武峯妙楽寺末に属して、本尊が十一面観世音菩薩である。橿原市今井町3丁目162 春日神社内にある。
旧常福寺表門(市指定文化財) (wikipedia・今井町より)]
旧常福寺表門
[旧常福寺観音堂と同じく、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって現在は廃寺となり、今井町春日講の所有になっています。表門は、境内の東端にあり、春日神社の門を兼ねる一間薬医門(やくいもん)です。建立年代については、確証はありませんが、称念寺蔵の1846年(弘化3)の「社地寺院本末御改帳写」に、常福寺表門、桁行丈間、梁行五尺五寸、瓦葺と記されていますが、虹梁(こうりょう)に彫られた絵様(えよう)、木鼻(きばな)、板蟇股(いたかえるまた)、実肘木(さねひじき)などの形式手法は、少なくとも17世紀初期を降らないものと考えられます。また、大棟(おおむね)鬼瓦に1732年(享保17)、東南隅蓋瓦(ふたかわら)に1772年(明和9)の瓦銘もあり、修理過程も知り得ます。 (「橿原市/旧常福寺表門」より)]
旧常福寺観音堂付棟札2枚
[旧常福寺は今井町の西南隅、春日神社の境内にあって、現在は観音堂をはじめ、行者堂(ぎょうじゃどう)、門などが残っています。その沿革の詳細については明らかではありませんが、1781年(延宝9)から天台宗多武峯の末寺となり、明治初年の廃仏毀釈の際、寺籍は廃され、春日神社のみとなりました。観音堂には1614年(慶長18)の棟札が保存され、棟木(むなぎ)下端(したば)束間(つかま)に残る止釘穴の痕跡と一致し、この個所に打ちつけられていたことは明らかです。しかし、1780年(安永9)、1811年(文化8)などの修理があり、軸部(じくぶ)を除きかなりの修理の手が加えられていますが、建物全体の形式はよく残っています。この建物は、簡素な造りではありますが、近世初頭の在郷寺院史を知る上で貴重な遺構ということができるでしょう。 (「橿原市/旧常福寺観音堂付棟札2枚」より)]
「旧常福寺表門 – Google Map 画像リンク」、「春日神社 – Google Map 画像リンク」、「旧常福寺観音堂 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が旧常福寺表門です。
春日神社境内のカメラです。