軽寺跡

マーカーは軽寺跡(法輪寺)伝承地です。

軽寺跡(かるでらあと)
[現在は法輪寺と傍に春日神社があります。国道169号線の東側、丸山古墳が築かれた丘陵頂部の北側で大軽町の集落に位置します。出土瓦から飛鳥・藤原京時代の創建と考えられ、「日本書紀」朱鳥元年(686)8月の条に「桧隈寺、軽寺、大窪寺それぞれに30年を期限として寄進する」との記事があります。法輪寺境内に金堂及び講堂と推定される土壇を残すのみで、土壇の位置や地形から法隆寺式ではないかと考えられています。寺域は法輪寺本堂のある丘陵の一部が周辺2m~3mほど際立っており、寺域が及んでいた可能性があります。境内には第15代天皇応神天皇の『軽島豊明宮跡(かるしまとよあきらのみやあと)』の伝承地とされており碑が立っています。  (「軽寺跡 | 一般社団法人橿原市観光協会サイト さらら」より)]

[軽寺跡
寺の創立年代は、明確にされてないが、寺跡から飛鳥時代後期、あるいは白鳳時代前期と思われる古瓦が発見されている。日本書紀には天武天皇朱鳥(すちょう)元年(六八六)に軽寺という記事があって、寺の存在がわかる。
 創立者は、加留大臣玄理(かるのおととくろまろ)、推古天皇の時から持ち帰った薬師如来像を本尊として軽寺を建てたといわれている。
 寺観などは全く不明であるが、平安時代中期、関白藤原道長が吉野詣りをしたとき、この寺を宿としている当寺付近には久米寺・大窪寺などの大寺があるにもかかわらず、この寺を宿としたほどであるから、相当な規模をもって栄えていたものと思われる。
        橿原市教育委員会  (「軽寺跡案内板(画像リンク)」より)]

法輪寺(軽寺跡) – Google Map 画像リンク」「春日神社 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は法輪寺前で、カメラ北西方向に軽寺跡案内板があります。