津和野藩蔵屋敷跡(此花乃井 顕彰碑)

マーカーは此花乃井 顕彰碑です。

此花乃井
[この井戸は江戸時代石見国津和野藩亀井氏蔵屋敷の井戸であったものだ。
 明治元年の明治天皇大阪行幸の際に、津村別院の天皇行在所へこの井戸の水を汲み上げて「玉水」(土佐堀の玉の井の水)として献上したところからさらに著名な井戸となった。「摂津名所図会」には「玉乃井」の記述のみしかなく、「花乃井」がどれほど世間に知られていたかは定かでない。
明治二年の版籍奉還とそれに伴う同四年の廃藩置県によって津和野藩の蔵屋敷は官に収められ同五年に江戸堀小学校となったが、この井戸は維持管理された。
 江戸堀小学校は明治十七年に木造二階建ての立派な校舎に建ちかわり、明治天皇の事績が定まった明治四十二年五月に、地域有志が「此花乃井」の顕彰碑を建立し、保存の道を講じた。しかし、大正十年の鉄筋校舎の工事の際には運動場整備の必要上、石蓋をして埋めてしまった。
 再度、陽の目をみたのは江戸堀町会連合会が名水保存のため復元した昭和十五年十一月からであり、それが花乃井中学校になってからも校庭に保存管理されていた。今は位置を校舎東北隅に移動させ、この地を訪れる人が直ちに捜し当てられるようにしている。  (「8.此花乃井」より)]

[津和野藩では、御殿は北西部に位置し、「御書院次ノ間」(ll5畳)と「御書院上ノ間」(12畳、床 付 き)で構成されている。御殿における居住空間の位置、規 模、室構成等を見ると、最南部に「御居間ニノ間」(10
畳)、「御居間上ノ間」(8畳、床付き)等で構成されている。役所空間では、北東部の「内玄冠」に接する「役所次ノ間」(9畳) 、「役所間」(10畳)や、中央部の「蔵元役居間」(12畳)等で構成されている。台所空間では、御殿の東南部の「御台所」(12.5畳)、「勝手詰所」(7畳)等で構成されている。
津和野藩御殿図

    (「大坂蔵屋敷の住居史的研究 – 住総研」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図をスクロールし、中之島下、土佐堀川に架かる越中橋の下、江戸堀川の架かる大目橋の左下が津和野藩蔵屋敷になります。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図中央左、江戸ボリに架かる大目バシの右下に「石州ツワノ」と記述されています。

カメラ南西方向に此花乃井 顕彰碑があります。