渚院跡

マーカーは渚院跡碑です。

渚院跡
[京阪・御殿山駅から淀川への一帯は渚がつく町名が多いですが、これは「渚」とは河・海・湖などにおいて波が打ち寄せる所という意味です。
旧『枚方市史』にも「渚は、淀川筋の港湾都市としての特色が見いだされ」と記されていて、古くから淀川を往来する船が出入りし、文化の中継地として重要な位置を占めていたと考えられます。
京阪・御殿山駅から北東に10分ほど歩くと渚元町に「渚院跡」の史跡があります。 「渚院」は光仁天皇宝亀2年(771年)交野(かたの)に行かれたことで、皇室が交野ケ原と深い関係を持つ事になったのが始まりで、次の桓武天皇は樟葉の藤原継縄の家で身支度をされ、交野ケ原で遊猟した際に「渚院」を御旅所にしたといわれています。
「渚院碑」には嵯峨天皇の「渚院を頓宮(御旅所)とす」と刻まれてます。
9世紀後半の時代背景が描かれている『伊勢物語』には、都から船で淀川を下ってきた惟喬親王と在原業平の一行が、水無瀬(島本町)の離宮に落ちついた後、淀川を下って「渚院」に入るくだりがあります。
折から周囲は桜が満開だったので、狩りはそっちのけで美しく咲き誇る花を見て、酒を酌み交わし、歌を詠んだのです。
惟仁親王(清和天皇)との皇位争いに敗れて、惟喬親王も家臣の在原業平も不遇の中におかれ、「渚院」は悲しい遊興の場でもありました。
872年に惟喬親王は出家して、比叡山の麓で暮らされ、それ以後「渚院」は荒廃しましたが、その後、観音寺という真言宗のお寺として復活しました。
お寺は明治3年に廃寺となりましたが、この観音寺の鐘楼と梵鐘は今も「渚院跡」に残っていて、枚方市有形文化財に指定されています。  (「枚方の民話 第7話『渚院』 | 枚方南支部 WP」より)]

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「渚院(6巻48)

惟喬親王遊猟(6巻49)

渚の院跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向金網フェンス前に渚院跡碑があります。