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満願寺
[満願寺(まんがんじ)は、兵庫県川西市満願寺町にある高野山真言宗の寺院。山号は神秀山。本尊は開眼阿弥陀如来(めあきのあみだにょらい)。観音堂は新西国三十三箇所第13番札所で本尊は千手観音である。満願寺町は川西市の飛地であり、周囲は宝塚市となっている。
寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願によって勝道上人が日本全国に「満願寺」を創建することとなった。当寺はそのうちの摂津国満願寺であるとする。
また山号であり山の名である神秀山の由来として『摂陽群談』によると、スサノオノミコトが高天原から出雲国に追放された際に最初に地上に降り立った山であることからこの名が付けられたとする。
平安時代中期には多田院を創建した源満仲が帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄え、やがて多田三山の一院となった。
鎌倉時代の正中2年(1325年)には後醍醐天皇によって勅願寺となり、室町時代に入ってからは源氏一門である足利将軍家の祈願所となって、最盛期には四十九の子院が存在していた。しかし、戦国時代になると兵火にあって衰微している。
江戸時代の宝歴6年(1756年)には円覚院、龍池院、西芳院、新坊など二十近くの数の子院があったが次第に衰微していき、明治時代に入ると現在本坊となっている円覚院しか子院は残らなかった。
山門にある仁王像は多田院が神仏分離によって多田神社になった際に当寺に移された多田院南大門の仁王像である。
源頼光の家来である頼光四天王の一人、坂田金時の墓がある。
山門(仁王門) – 1881年(明治14年)再建。非常に変わった造りをしている仁王門。祀られている金剛力士像は、神仏分離の際多田院が多田神社となった1871年(明治4年)に当寺に移されたもの。wikipedia-photo
観音堂 – 寛文8年(1668年)再建。奥の院にあったが1884年(明治17年)に現在地(金堂の南東)に移転する。天井の龍図は狩野義信筆。新西国三十三箇所第13番札所で千手観音を祀る。摂津国三十三箇所第18番札所でもある。wikipedia-photo
金堂 – 承応2年(1653年)再建。元は子院円覚院の常行堂。本尊の開眼阿弥陀如来(めあきのあみだにょらい)は勝道の作とされる。wikipedia-photo
(wikipedia・満願寺_(川西市)より)]
満願寺境内図(「オープンストリートマップ」より。)
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「8巻5・萬願寺」
カメラ北方向が満願寺参道になります。
満願寺本坊前のカメラで、カメラ北方向が本堂、カメラ東方向が本坊になります。
満願寺本堂前のカメラです。