熊内八幡神社(滝勝寺旧跡)

マーカーは熊内八幡神社です。

熊内八幡神社
[旧熊内村の氏神で、応神天皇彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を祭神とする。この神社の創建についてはいくつかの説がある。文武天皇の時代、滝勝寺建立の時、寺の鎮守として創祀し、その時に祭神の一つ彦火々出見尊を祀ったたという説や、後鳥羽上皇の時だという説もある。また、永禄年間にこの地の名族中西家の祖、加賀美(かがみ)二郎が創建したともいう。なお、荒木村重織田信長に反旗を翻し乱(有岡城の戦い)を起こしたとき(1579<天正 7>年)、滝勝寺とこの神社が焼かれ、その後復興した。しかし、1889(明治 22)年火災にあい、一時二宮神社に合祀されたが、1902(明治 35)年に氏子の手で元の場所に再建された。  (「熊内八幡神社 熊内町9丁目」より)]

滝勝寺
[俗に滝寺といわれ、山号を布引山と号し、真言宗の寺院である。この寺は熊内八幡神社の北裏にあったが、1920(大正9)年に現在地に移った。移転以前のこの寺は熊内八幡の北の字東山(観音山)を中心に、西は徳光院から布引雄滝あたり、南は神若通あたりまでを勢力範囲として、末寺や支坊が多くあり隆盛をきわめていた。そして、今でも残る口円光坊、奥円光坊、寺ケ谷、教ノ尾、滝寺山といった字名は、むかしこの一帯に寺の堂塔伽藍があったことの名残であろう。なお、江戸時代に書かれた『摂津名所図会』からその頃の様子がうかがえる。さて、寺の縁起によれば、この寺は文武天皇の時代(697~706 年)、役行者(えんの
ぎょうしゃ)が布引滝に入り修行中、馬頭観音があらわれ、その霊感を得て創建されたものであるという。また、平清盛福原遷都をした時、葺屋庄内 300 戸を寺領として賜わり、後、花熊城の戦いにおける荒木村重の乱で寺は焼け、その後復興したという。
移転先現住所:熊内町 2 丁目 1-42  (「滝勝寺(りゅうしょうじ) 熊内町2丁目」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻52・熊内龍勝寺

[図会右ページに観音堂、行者堂と記述され本堂境内が描かれ、左ページに末寺や支坊が描かれ、左端の鳥居が熊内八幡神社と思われます。]

熊内八幡神社 – Google Map 画像リンク

熊内八幡神社参道鳥居前のカメラです。

滝勝寺前のカメラです。(Google Map)