猪名の笹原旧跡

マーカーは猪名の笹原旧跡です。

猪名の笹原旧跡
[歌枕としての猪名野
 猪名川の西岸から昆陽〔こや〕にかけての高燥な台地一帯を総称して、古くは猪名野といい、いまも伊丹市内の稲野や尼崎市域の猪名寺などにその名が伝えられています。この猪名野は、王朝貴族の世界では、和歌の名所〔などころ〕、いわゆる歌枕の地として有名で、多くの和歌に詠まれてきました。そのいくつかをあげてみましょう。
 しなが鳥 ゐなの伏原〔ふしはら〕とびわたる 鴫〔しぎ〕の羽音面白きかな
  神楽歌(「拾遺和歌集」巻十)
 有馬山 猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
  大弐三位〔だいにのさんみ〕(「後拾遺和歌集」巻十二)
 しなが鳥 ゐなのふし原風さえて 昆陽の池水こほりしにけり
  藤原仲実(「金葉和歌集」巻四)
 このうち、大弐三位の歌は「小倉百人一首」にも撰録されており、とくに有名です。これらの和歌において、猪名野は、笹が生いしげる荒野であり、かつ風が吹きすさび、氷が張りつめるなど、荒涼寂寞〔せきばく〕としたイメージを込めて、「猪名の笹原」「猪名の伏原」「猪名の柴原〔ふしはら〕」などと詠まれたのでした。猪名野は、伊丹段丘〔だんきゅう〕と呼ばれる台地上に位置し、未開の荒野が多く存在したので、このように詠まれたのもあながち理由のないことではありません。
 けれども、歌枕における猪名野の荒涼寂寞とした情景やイメージは、作歌上の約束ごと(前提)であって、必ずしも実景とイコールではないのです。歌枕の作歌上のもっとも重要な特色のひとつは、実景を直写することではなく、その地名について、これまでに詠まれてきた情景・イメージの表現パターンを固定し、その枠組みのなかで、いかに巧みにアレンジして詠むかという点にありました。したがって、作歌に際して修辞と技巧を凝らせば凝らすほど、ますます実景(現実)から遠ざかり乖離〔かいり〕するという要素も持っていました。
摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「8巻32・猪名寺金塚猪名笹原

右端に「ゐな寺」として現在の法園寺境内、猪名寺廃寺跡の森を描き、神崎からの街道の先に、遠景として伊丹町の人家を配しています。左の上部には、鎌倉時代前期の歌人・藤原隆祐の和歌「かるもかく ゐなのゝ原のかり枕 さてもねられぬ 月を見るかな」(「続古今和歌集」収録)を載せ、古来からの歌枕の地としてこの風景を描いています。  (「「猪名の笹原」と橘御園 – 図説 尼崎の歴史-中世編」より)]

猪名の篠原(いなのささはら)  伊丹市東有岡5-125 東リ
[猪名の篠原旧蹟
万葉の時代からこの地一帯は猪名野と呼ばれ、笹の原野が拡がり、風にそよぐ笹原の風情は古くから旅人の詩情をかもしていたとみえ、数多くの古歌が残されています。
その後、荒涼とした笹の原野が次第に開拓されていく中で、一画の笹原が残され、人びとに猪名の笹原の旧蹟として伝えられてきたようで、正保2年(1615)頃の摂津国絵図の中にこの地が「いなの小笹」と記され、寛政10年(1798)頃の攝津名所図会には「猪名笹原」とあります。
今この庭にある笹は、学名ネザサと呼ばれ、植物学者室井 綽氏の御説により往時の笹を偲ぶよすがとして弊社が植付けたものです。
左側に植えられた笹は学名オカメザサと呼ばれるものです。有馬山の歌の笹をオカメザサとする学者もおられますので、御参考のため、併せて植えることにいたしました。
ところで当地には明治24年から大正8年まで、緯糸に稲わら繊維を用い経糸に綿糸を用いた平敷織物である由多加織の工場がありましたが、現在ではこれを継承進展した東洋リノリューム株式会社が操業いたしております。
敷地の中には猪名の笹原に祭られていたお社を継承したといわれる笹原稲荷や(黄)金塚があり、弊社によって保存されています。
         平成元年12月1日、創業70週年記念日 造園  東洋リノリューム株式会社  (「猪名篠原 – 摂津名所図会」より)]

カメラ東方向が猪名の笹原旧跡案内板です。