生野コリアタウン

マーカーは御幸通商店街の百済門です。

生野コリアタウン
[生野コリアタウンは、大阪市生野区桃谷および鶴橋にある総称「御幸通商店街」3つの商店街(『御幸通商店街』、『御幸通中央商店会』、『御幸通東商店会』)とその周辺の通称。
古代の660年に滅亡した百済から引き受けた人々との出来事と、近代である1910年以降の李氏朝鮮を由来とする人々によるコリアタウンの形成に関連性はないが、百済が朝鮮半島にゆかりのある土地柄から、御幸通商店街には百済門が建てられている。
1993年から『コリアタウン』との呼称を使うようになった。それまでは「朝鮮市場」と呼ばれ(近隣住民の中には今もなお「朝鮮市場」の愛称を使う者も少なくない)、在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが豊富に揃う生活に密着した市場であった。その呼称利用の際に東・中央の両商店街にはそれぞれ「百済門」「御幸通中央門」が完成。カラー舗装、街灯なども設置。多くの在日韓国・朝鮮人が生活する街として、その特色を際立たせた。
その後、2002年日韓共催のワールドカップサッカーの開催や「韓流ブーム」の影響を受け、鶴橋駅西側(天王寺区)一体から続く大規模なコリアタウンとして有名になる。
現在は在日韓国・朝鮮人はじめ地元の人々の生活スペースでありながら、観光客が多く訪れるようになり、さらに知名度をあげるため2009年から「生野コリアタウン共生まつり」が開催されている。
上町台地の東側の緩傾斜面一帯、現在の天王寺区東部および生野区西部は古代から百済野(くだらの)と呼ばれ、660年の百済滅亡と663年の白村江の戦いののち、多数の百済国人が移り住んだ地のひとつとされる。
奈良時代から平安時代にかけては、摂津国東成郡住吉郡のそれぞれ一部を割いて百済郡が設置されており、現在の生野コリアタウンの辺りも百済郡比定地のうちに含まれる。
百済野の北端には、まだ河内湖が残っていた時代に猪甘津(いかいつ)という港湾があり、西風に起因する高波を上町台地が防いでくれる良港として重宝されていた。
日本書紀仁徳天皇14年冬11月条に「猪甘津に橋をわたして、小橋(おばせ)と名付けた」旨の記載があり、朝鮮半島との交流が盛んだった古墳時代、かつ、上町台地上に仁徳天皇の皇居(難波高津宮)が置かれていた時代の猪甘津には、百済滅亡以前からの渡来人の存在も示唆されている。なお、猪甘津野から転じた地名が猪飼野である。
1910年の日韓併合を経て、1922年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航した。これを機に多くの朝鮮民族(大半は済州島出身者)が労働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となった。
1945年の日本の敗戦後、朝鮮半島は独立で日本では無くなっため、戦前渡航者の約3分の2は済州島に帰った。しかし、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び多くの済州島出身者が日本へ渡航してきた。  (wikipedia・生野コリアタウンより)]

大阪生野コリアタウン 御幸通商店街ホームページ」 – 「商店街沿革&概要」「コリアタウンマップ

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図右上、平野川上に猪飼野村と記述されています。

今昔マップ on the web」(1892~1910年)-初期表示画面中央に鶴橋村猪飼野と記述されています。 百済門があるのは、「鶴橋村」の「橋」と「村」の間、右側十字路付近になります。

カメラ西方向が御幸通商店街の百済門です。