法楽寺

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法楽寺
[法楽寺は、奈良県磯城郡田原本町にある真言宗の寺院で、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかかるものとされる。承元元年( 1207 年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年( 1222 年)に再建がなされた。
長禄三年( 1459 年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の伽藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇 25 を数えたが、兵火で焼けて現在残るのは 1 坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代前期)などの古い仏像も所蔵する。  (「法楽寺(ほうらくじ)/田原本町」より)]

庵戸宮
[第 6 代孝安天皇暦 102 年(紀元前 291 年)に、第 7 代孝霊天皇により現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられる。そのため、黒田庵戸宮ともいわれる。ただし、正確な所在地については諸説ある(奈良県史料『大和志料』によると黒田ではなく同町字宮古であるとか、「いおと」という読みから同字伊与戸に置かれたとする説がある)。いずれにしても、孝霊天皇以前の皇宮の多くが奈良県山間部に置かれたと伝わるのに対して、奈良県中央に位置する大和盆地に遷都されたことで、大和国から河内国への進出、吉備国平定など黎明期の大和政権の支配域拡大につながったものとみられている。
孝霊天皇暦 76 年(紀元前 215 年) 2 月に同天皇が崩御し、第 8 代孝元天皇により軽境原宮(かるのさかいはらのみや、現在の奈良県橿原市見瀬町周辺と伝えられる)に遷都されるまでの間、政権の中枢として機能したとみられる(一方で、この時期は第 9 代開化天皇までのいわゆる欠史八代の期間にあたり、そもそも『古事記』『日本書紀』自体の信頼性を疑う見方も根強く存在する)。
奈良県磯城郡田原本町黒田には、庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)があり、これが庵戸宮の伝承地とされている。ただし、もともとは鎮守社として同町の法楽寺(真言宗、聖徳太子開基)の境内にあったものが、明治時代初期の神仏分離令により現社地へ遷座し黒田村の氏神として引き継がれたという経緯(旧地より移した「明和 7 年( 1770 年)」の紀年銘をもつ石燈籠 1 対により確認できる)の為、現在の庵戸神社は厳密には宮跡とはいえない。
これに対して法楽寺には、庵戸宮跡であったことを示す石碑が建立されている。かつてはここに 25 宇もの堂塔伽藍が建ち並んでいたが、承元元年( 1207 年)に全て消失し、現在はわずかに 1 宇(貞応元年( 1222 年)に再建)が残るのみである。
庵戸神社の隣には、庵戸池(黒田池)と呼ばれる池がある。 また、その周辺には弥生時代の黒田遺跡や唐古・鍵遺跡箸墓古墳古墳時代( 6 世紀)の前方後円墳である黒田大塚古墳等がある。 さらに、門前の街道は聖徳太子が飛鳥から法隆寺へ通った「太子道」(法隆寺街道)であると伝えられている。
「孝霊天皇黒田廬戸」と彫られた石碑(於法楽寺)・wikipedia-photo  (wikipedia・庵戸宮より)]

桃太郎伝説&板絵図の法楽寺@田原本町黒田 | 奈良の宿大正楼

法楽寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が法楽寺参道で、入口左に「孝霊天皇黒田廬戸」と彫られた石碑が、参道右に法楽寺案内板があります。

法楽寺参道のカメラで、カメラ北方向に本堂が見えます。