當麻寺

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當麻寺
[當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市當麻にある真言宗浄土宗二宗の寺院。法号は禅林寺。山号は二上山。本尊当麻曼荼羅。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)である。宗派は真言宗と浄土宗の並立となっている。開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年4月14日(2019年より、明治期 – 2018年までは5月14日)に行われる聖衆来迎練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。
奈良時代から平安時代にかけての寺史は、史料が乏しく詳しいことはわかっていない。現存する本堂(曼荼羅堂)は棟木墨書から永暦2年(1161年)の建立と判明するが、解体修理時の調査の結果、この堂は奈良時代に建てられた前身建物の部材を再用していることがわかっている。寺に伝わる当麻曼荼羅は、鎌倉時代の『建久御巡礼記』によれば、天平宝字7年(763年)に作られたとされている。当初は三論宗の寺院であったが、『弘法大師年譜』に弘仁14年(823年)、空海が當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降當麻寺は真言宗寺院となったという伝えがある。當麻出身の恵心僧都源信寛弘2年(1005年)に当寺で迎講を行ったが、これがやがて現在の聖衆来迎練供養会式となっていった。
治承4年12月28日(1181年1月15日)、平重衡南都焼討により、東大寺興福寺などは伽藍の大部分を焼失したが、興福寺と関係の深かった當麻寺も焼き討ちの被害に遭い、東西両塔などは残ったが、金堂や講堂などを焼失した。
平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖・証空は、貞応2年(1223年)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。
南北朝時代応安3年(1370年)に京都知恩院12世の誓阿普観が当寺の境内に往生院(現・奥院)を創建し、それ以後は真言宗と浄土宗の二宗兼学の寺院となった。
江戸時代宝暦年間(1751年 – 1764年)、真言宗僧のみで行われていた曼荼羅堂の法会参集に浄土宗僧の参加が認められるようになった。この頃には31の子院があったが、現在は13の子院が残る。
東塔(左)、西塔(右)・wikipedia-photo

仁王門・wikipedia-photo

金堂(重要文化財)・wikipedia-photo

講堂(重要文化財)・wikipedia-photo

本堂(曼荼羅堂、国宝)・wikipedia-photo

弥勒仏像(国宝。金堂本尊)・1933年画像 – wikipedia-photo

西塔(国宝) 最上部の相輪は通常の九輪ではなく八輪である(東塔の相輪も同様)。wikipedia-photo

中之坊本堂(手前)と東塔(国宝)。東塔は西塔と異なり、二・三重目の柱間が二間になる。wikipedia-photo

東塔・wikipedia-photo

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當麻寺 中之坊と伽藍堂塔 -奈良県 葛城市-」 – 「拝観案内

當麻寺境内図

  
當麻寺 奥院(浄土宗) ウエブサイト

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「当麻寺」(3-62)

當麻寺仁王門前のカメラです。

當麻寺仁王門内のストリートビューです。

當麻寺本堂(曼荼羅)前のカメラで、カメラ反転方向右側が金堂、左が講堂になります。

當麻寺東塔前のカメラです。