マーカーは眼洗湯跡付近です。
眼洗湯
[かつて有馬温泉には、「眼洗湯」という名所があったという。
果たしてそれはどのようなものだったのだろうか。
明治18年の「有馬温泉誌」によれば、眼洗湯というのは別名「明目湯」とも呼ばれ、「上谷町」と「下谷町」の境にある「六地蔵」という所より少し南へ入った場所にあったとされている。
現在の一般的な温泉のように浸かる形式のものではなく、小さな井戸のようなところから湧き出るごくわずかな湯で眼を洗う、といった風に利用されていたようだ。
して、この温泉にはどのような効果があるかというと、「はやり眼」、すなわち結膜炎などの改善に効き目がみられたようだ。
寛政八年(1796年)ごろに著された「摂津名所図會」によれば、その周囲は露店が立ち並ぶなどの賑わいぶりで、名所であったという事実を物語っている。
その主成分については不明であるが、「有馬温泉史話」によれば、有馬温泉本来の成分に加え、若干多量の塩分が含まれていたのではないかとされている。
それで眼を洗うと、こびりついたヤニなどを落として清潔になると同時にある種の爽快感を覚え、心身ともにポジティブな効果を得ることができたというわけだ。
この眼洗湯であるが、明治十八年(1885)の「有馬温泉誌」の記録を最後に、歴史から姿を消してしまっている。
「有馬温泉史話」によれば、郵便局の工夫詰所の床下に埋没されてしまったという。
おそらく、なにかしらの理由で湯が止まってしまい、人々が集まらなくなったのだろう。 (「有馬温泉まぼろしの名所「眼洗湯」とは」より)
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「12巻6・有馬温泉寺」
[図会中央左に描かれる薬師が現在の黄檗宗温泉寺(元清涼院)の本堂になります。薬師の右に三所社(温泉神社)が描かれています。]
[温泉神社は愛宕山麓の温泉寺境内に御社殿(江戸時代中期・寛政10年(1798年)築)があったが、1885年(明治18年)に現在地である愛宕山中腹に移建された。 (wikipedia・湯泉神社より)]
「12巻31・有馬温泉明神祭目洗湯」
[図会は有馬温泉明神祭の様子で、右ページに三所権現の幟が描かれていますので温泉神社の祭りになります。絵図左ページ左端に眼洗湯が描かれています。12巻24・明目湯説明では「妬湯(妬神社・Google Map)の西温泉寺の下にあり」と記述されていますので、図会の場所は三所権現(温泉神社)・温泉寺参道下になると思います。また、絵図三所権現の幟左の筆の看板がかかっています、これは有馬の名産品人形筆の販売店を示す看板と思われます。]
[人形筆・籠・楊枝は有馬の名産品である。人形筆は、筆をおこすと中に仕込まれた小さな人形が現れるからくり仕掛けの筆で、1683(天和3)年の『新版 有馬名所鑑』に、有馬名物の中で一番人気の商品として取り上げられている。編んだ籠を代表する竹細工も人気で、文箱、硯箱をはじめ様々な美しい容器を取り扱っていた。みやげ物を買い求める習慣は江戸時代も同じで、有馬温泉での逗留中、留守番の家人や友人のためにあれこれと品定めをしていたのであろう。当時は自分の手で持ち帰る必要があったため、美しく、軽く、実用に耐えるこれらの商品が 人気だったと思われる。 (「名所めぐり:人形筆・籠・楊枝 | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育 …」より)
カメラ位置は温泉寺参道下で、この付近に眼洗湯跡があったと思われます。