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神呪寺
[神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は、兵庫県西宮市甲山町にある真言宗御室派の別格本山の寺院。山号は武庫山。本尊は如意輪観音。甲山の山麓にあり、通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。新西国三十三箇所第21番札所。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、「仏の真の言葉」という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようである。
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について載っている。それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとする。
天長7年(830年)に空海は本尊として山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。
鎌倉時代初期の寿永年間(1182年 – 1184年)に源頼朝が梶原景時を奉行として再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。
戦国時代には織田信長が荒木村重を攻めた有岡城の戦いに巻き込まれ、多くの堂塔が焼失している。また、文禄3年(1594年)には豊臣秀吉によって寺領の大半が没収された。
享保4年(1719年)には諸堂が再興されている。
当寺はこれまで真言宗御室派本山仁和寺の末寺であったが、宝暦13年(1763年)10月22日に延命寺から院号・氷律院を贈られ、河州延命寺派の末寺となった。しかし、寛政10年(1798年)6月に再び仁和寺末寺となる。
神呪寺の本尊・如意輪観世音菩薩坐像(重要文化財)は大阪府河内長野市の観心寺、奈良県宇陀市の室生寺の如意輪観音像と共に日本三如意輪観音の一つとされている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている。
5月18日に融通観音大祭があり、本尊の開扉がある。
仁王門・wikipedia-photo
参道石門・wikipedia-photo
大師堂・wikipedia-photo
多宝塔・wikipedia-photo
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神呪寺境内図(「オープンストリートマップ」より。)
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻12・兜山神呪寺」
神呪寺参道前のカメラで、カメラ南方向に仁王門があります。
神呪寺参道のカメラです。
神呪寺本堂前のカメラです。