神崎の渡

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神崎の渡
[長岡京遷都にともなって淀川と現在の神崎川とを結ぶ工事が行われて以来、都と西国諸国間の輸送路として、神崎川筋が大いに繁栄した。「天下第一の遊里」としても賑わいを見せるが、一方ではこの地の遊女にまつわる「ゆりあげ橋」の悲しい伝説が伝えられている。
 「太平記」には、南北朝の戦乱も終わりに近づいた正平16年(1361)、神崎の地をめぐっておこなわれた戦いの場面が描かれている。しかし記述通りの橋が架っていたかは定かでない。
 江戸時代中国街道の要衝であった当地には渡船が設けられていた。「摂津名所図会」には、”昼夜行人絶えず”と、その賑わいぶりが記されている。船渡しは神崎村が担当していたが、渡し賃を徴収できるかわりに、幕府の公用や大名の通行などの御用を勤める必要があったため、村の重荷は相当なもので、御用負担軽減の嘆願がしばしばなされている。
 近代になっては、大正13年に橋が架けられ、以後、昭和28年、54年に架け替えられた。昭和28年に架けられた橋は、わが国で初めての合成桁として設計されたもので、戦後の橋梁技術革新の先駆的な役割を果たすものであった。54年に架けられた現在の橋もまた合成桁橋で、わが国最大規模を誇る。  (「神崎橋(かんざきばし) – 大阪市」より)]

[『太平記』の記述で、正平17年(1362)に焼き落とされたとされる神崎の橋は、その後の歴史の舞台には登場しません。渡河の必要がなくなった訳ではありませんから、橋の代わりに渡船が設けられていたと思われます。
 神崎の渡しの存在は、慶長10年(1605)に画かれた『摂津国絵図』からも読み取ることができます。神崎の渡しを大坂の方から渡りますと、真っすぐに北上して伊丹方面へ至る道と、西行して尼崎へ達する街道に通じており、そこには宿駅が置かれていました。江戸時代の神崎の渡口(わたし)は、『摂津名所図会』によると「昼夜行人絶えず」と表現されるほど、利用者は多かったようです。
 神崎の渡しを受け持ったのは兵庫側の神崎村でした。渡しの営業権を与えられ、渡し賃を徴収できるかわりに、幕府の公用である御伝馬御用や大名などの通行に際して、船渡しの御用を勤めなければなりませんでした。
 神崎渡しは川幅が300間(約540m)、常水幅は約100m、深さは8尺(約2.4m)でした。明治4年の資料によりますと、渡し賃は1人につき40文で、増水時には6割増しの64文になりました。ただし武士と僧侶は無賃とされていました。渡し船は2艘、他に馬越え船が2艘、平日は5人の船頭が詰めていました。
 街道筋に当たる神崎渡しでは、公用の負担が大きく、渡しを担当する村には重荷になり、しばしば御用負担軽減の嘆願がなされました。このためか、中国街道の宿駅にあたる神崎の駅は、伊能忠敬が「何(いず)れの家作宜しからず」と記しているように、施設はかなり貧弱な状態であったようです。  (「大阪の橋(20)「神崎橋(4):神崎の渡」」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「8巻36・神崎渡口

カメラ位置は神崎橋西詰めです。