福井藩松平(越前)家岡崎屋敷

マーカーは福井藩松平(越前)家岡崎屋敷跡です。

[慶応3年から明治2年頃の松平慶永(春嶽)の居所は京都の岡崎屋敷(『福井県文書館資料叢書6 越前松平家家譜 慶永3』2011年刊 より)。岡崎屋敷の位置は、京都市美術館などの近くにあったのではないかと思われる(県文書館調査員より)。  (「慶応3年から明治元年の岩佐純の居所や活動内容について知り …」より)]

[幕府は、福井藩を初め諸雄藩の懸命な諫止にもかかわらず、再征の準備を進め、9月21日朝廷に奏請して長州再征勅許を得、福井藩の協力を要請し、慶応2年5月27日藩主松平茂昭の上京を求めたが、茂昭は病気のため出陣に堪えられないと拒否した。次いで春嶽の上京を督促したので、春嶽は6月1日やむなくその命に応ずる旨を回答するとともに、幕府に「演説案」を差し出した。このなかで、「貢租の過重な負担と物価の高騰により、士民が困窮している。将軍が征長のため大坂を出発すれば、その機に乗じ、幕府の失政を口実に、人心を扇動してどんな変乱を企てる者が出てくるかもしれない。そのため将軍は絶対に出陣してはならない」と切言した。 春嶽は、断固たる決意で六月二十五日福井を出発、二十九日京都岡崎の藩邸に入り、当面の紛糾した政局の収拾に乗り出した。一方、長州藩では、領民の力を組み入れた洋式軍制による挙藩的な反撃態勢が整い、幕府軍をいよいよ窮地に陥らせた。七月二十日の将軍家茂の病死により、幕府はようやく撤兵の機会をつかんだ。このとき、春嶽が「九州解兵」の好機であると進言したのはもちろんであり、慶喜は八月十六日「長州征伐を停止し、大名諸侯を招集して国事を議すべきこと」を朝廷に奏請して勅許を得た。
その後、空位となった将軍職を巡り、春嶽は板倉勝静永井尚志らとともに慶喜に将軍就任を求めた。慶喜は拒み続けたが、12月5日についに15代将軍に就任した。
慶応3年(1867年)、島津久光が送った西郷隆盛に促された山内容堂伊達宗城が相次いで上京。当時京都に居た春嶽もまた、小松帯刀の説得を受け、この四者で四侯会議が開かれた。この合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷および雄藩連合による合議をもってこれに代えようと久光は画策していた。第1回の会合は5月4日(6月6日)に京都の越前藩邸で開かれ、以降2週間余の間に徹夜も含めて8度会談は開かれた。朝廷関係者、徳川慶喜らを交えた会議では、兵庫開港や長州藩の処分について話し合われた。早々に諦めた容堂と違い、春嶽は長州征伐には最後まで反対するが、慶喜の巧みな懐柔により慶喜らの意見が勝利した。
この会議の失敗以降、薩摩藩は強硬な倒幕側へ傾き、西郷や大久保利通らは岩倉具視と結託し、土佐藩広島藩との関係を模索する。一方土佐藩の中で武力討幕に反対する後藤象二郎坂本龍馬福岡孝弟らは平和的な解決を試み、慶喜に対し大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。慶喜はこれを容れて、10月14日、大政を朝廷に奉還した。  (wikipedia・松平春嶽より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右、鴨川右越前屋敷が描かれています。)

カメラ位置は冷泉通/桜馬場通交差点で、カメラ北西方向が福井藩松平(越前)家岡崎屋敷になります。