竹原井頓宮跡

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竹原井頓宮
[竹原井頓宮(たかはらいのとんぐう)とは、奈良時代柏原市内にあったと考えられている天皇の仮の宮のことです。奈良時代の歴史が記された『続日本紀』には「養老元年(717)2月、元正天皇和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊した」と記されています。他に「竹原井離宮」、「竹原井行宮」という表記もありますが、基本的に同じと考えていいでしょう。いずれの記事も、平城宮と難波宮や和泉宮との往還途中の宿泊に利用されたと書かれています。
 平城宮から難波宮へは40km余り、和泉宮の位置については諸説ありますが、和泉市府中付近とすると50km近くになります。行幸過程において1日では無理な距離のため、中間地点にあたる柏原市付近に頓宮の造営が必要になったのです。
 竹原井頓宮は平城から難波へのほぼ中間地点にあたるだけでなく、大和川が狭い渓谷を流れる、離宮の景観に最適な土地でした。

奈良時代にもっとも頻繁に行われた行幸は、平城宮から難波宮への行幸でした。難波宮は副都と位置づけられ、一時的ですが正式な都にもなっています。聖武天皇のときには瓦葺きの豪華な宮殿として整備されました。
 平城宮から難波宮へ行幸を行う場合、まず平城京の朱雀大路を南へ向かい、羅城門付近から西へと向かって斑鳩へ至ります。法隆寺の前を進み、龍田大社を経て竜田道で竜田山を越えます。
平城宮から難波宮への行幸路

 奈良時代の初めは、青谷付近で大和川を左岸へ、次に石川を渡ってそのまま左岸沿いに進んで四天王寺付近へ至り、難波宮朱雀大路を北進したようです。その大和川の渡河点付近の右岸に青谷遺跡がありました。
 奈良時代中頃、天平4年(732)ごろに難波宮が完成すると間もなく、青谷遺跡付近から一旦北の山中に入り、安堂付近に下ってから大和川を渡るように変更されたと考えられています。こちらのルートは起伏が激しく、十分な道幅の確保も難しいのですが、大和川を一度渡ればよかったのです。  (「竹原井頓宮 | 大阪府柏原市」より)]

竹原井頓宮跡地(青谷遺跡) – Google Map 画像リンク

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「竹原井」(3-41)、「竹原井解説・左ページ左端」(3-40)