芦屋神社(猿丸太夫墓)

マーカーは芦屋神社です。

芦屋神社
[芦屋神社(あしやじんじゃ)は、兵庫県芦屋市に鎮座する神社である。祭神である天穂日命(アメノホヒノミコト)は縁結びの神として崇敬を集めている。また、氏神として、芦屋の地の守り神として地元の人々の信仰を集めている。
神社の西側に鎮座する水神社は、古墳時代(7世紀)後期の横穴式石室墳(芦屋市指定史跡)である。神社の飛地境内地である「弁天岩」上の祠に祀られていた「水の神」を祀ってある。また、鎌倉時代の建立とされている猿丸大夫の墓と伝えられる宝塔がある。
現在の社殿は1930年(昭和5年)に造営されたものである。

拝殿・wikipedia-photo

境内古墳(芦屋市指定史跡)・wikipedia-photo

伝猿丸太夫墓(芦屋市指定文化財)・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、芦屋神社の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・芦屋神社より)]

猿丸大夫
[猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)は、三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。
猿丸大夫に関する伝説は日本各地にあり、芦屋市には猿丸大夫の子孫と称する者がおり、堺にも子孫と称する者がいたという。長野県の戸隠には猿丸村というところがあって、猿丸大夫はその村に住んでいたとも、またその村の出身とも伝わっていたとの事である。しかしこれらの伝説伝承が、『古今和歌集』や三十六歌仙の猿丸大夫に結びつくかどうかは不明である。  (wikipedia・猿丸大夫より)]

芦屋神社境内案内図(芦屋神社 – Google Map 画像より)

猿丸墓は本殿左後ろ②になります。

[昭和42年(1967)年、共同住宅建設に伴う芦屋廃寺の発掘調査が実施され、薬師堂と考えられる建物跡が見つかり、江戸時代に描かれた「摂津名所図会」(寛政8年、1796)の内容を裏づける貴重な発見になりました。
 芦屋には、行基開創の奈良時代の寺院があったという伝承や、伽藍整備の後をのちに在原業平が行ったという言い伝えがあります。近世では塩通山法恩寺と呼ばれる寺ですが、元禄5年(1692)10月の「寺社御改委細帳」に詳しく登場します。嘉吉2年(1442)頃、兵火消失があり、その後、薬師堂を設けて法灯をつないだことがわかります。
 中世以来の法恩寺と芦屋廃寺とのつながりは、全く不明ですが、古代では「兎原寺」と郡名で称された可能性も高いのです。 (「芦屋廃寺跡(ashiyahaiji_leaf.pdf)」より)]
[芦屋廃寺の所在地は芦屋川右岸、芦屋川扇状地の傾斜が顕著になる標高28m~34mに立地する。阪急電車神戸線に接して北側になる。足下の山陽道や沿岸の船から六甲の緑を背景に伽藍が目立ったであろう。
遺構(建物基壇など)が確認された芦屋廃寺跡(第62地点)は、阪急芦屋川駅(南流する芦屋川を跨いで造られている)を山側(北)に出て、山手商店街を西へ300mばかり歩くと、道路脇に「芦屋廃寺址」の碑があり(芦屋廃寺趾碑前のカメラ)、さらに50mばかり西、マンションが調査地。見えにくいが入口脇に軒丸瓦をあしらった「芦屋廃寺跡」の小さな金属板が嵌め込まれている(「芦屋廃寺跡」プレート前のカメラ)。  (「― 芦屋廃寺・葦屋駅家を中心に ―」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻29・芦屋里猿丸太夫塚公光社薬師堂潮見塚

[図会の中央上付近から右下方向に描かれる松並木は芦屋川の並木道で、その右に猿丸太夫墓が描かれています、この地は現在の芦屋神社で、芦屋川の左に芦屋集落が描かれ、そこの下に公光社、左上方向に薬師、若宮と記述されています。]

芦屋廃寺趾碑前のカメラです。(Google Map)

「芦屋廃寺跡」プレート前のカメラです。(Google Map)

[三条八幡神社(さんじょうはちまんじんじゃ)は、兵庫県芦屋市三条町にある神社で、八幡皇大神(やわたのすめおおかみ)・大山積大神(おおやまづみのおおかみ)・厳島比売大神(いつくしまひめのおおかみ)を祭神とする。  (wikipedia・三条八幡神社より)]
[三条八幡神社は若宮社と同じく応神天皇を祀る神社(神功皇后の若宮である)で、江戸時代には若宮神社であったかもしれない。  (「芦屋廃寺の色々 – 神戸・昼から散歩」より)]

三条八幡神社前のカメラです。(Google Map)

[『摂津名所図会』には「業平屋敷」と並んで、「公光跡(きんみつのあと)」や「公光第(きんみつのやしき)」が記されています。「公光第」については続いて「月若が古跡に隣る。謡曲雲林院』の中に芦屋公光と見えたり。これによりて古迹とするか」という説明が記されています。
実はこの公光第らしきものが、現代にも残っています。なぜか公光町ではなくて、そこから少し北西にある「月若町」の中に、ひっそりと「業平大神」そして「公光大神」と記された小さな祠があるのです。
祠の中には、大小二つの屋根がついた石塔がありました。どちらが業平で、どちらが公光なのかは分かりえませんが、こうしてセットで祀られているのは、どう考えても能《雲林院》の影響です。
能《雲林院》自体は能という演劇に作られた「架空の物語」ですが、それが実際の史跡が作られ、地名となって現代に定着していることの面白さを感じるばかりです。  (「能の登場人物が地名に?「芦屋公光」 – 能楽と郷土を知る会」より)]

公光・業平の祠 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向石柱門が公光・業平の祠参道です。(Google Map)