マーカーは西宮神社です。
西宮神社
[西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
創建時期は不明だが社伝によると、和田岬の沖に出現した蛭児命の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、それによってそこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源だという。
延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社の大国主西神社が式内社とされているが、西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡と菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。
式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社と神祇伯の白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。
平安時代末期、廣田神社の摂社として「夷」の名が初めて文献にあらわれるようになる。そのためこの頃から戎信仰が興ったとの説がある。同時期の梁塵秘抄にも、諏訪大社、南宮大社、敢国神社と共に、廣田神社の末社が南宮とされている。この南宮が現在の西宮神社のことであり、廣田神社の境外摂社である「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内にあるのはその名残りである。
神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。
[西宮傀儡師。摂津名所図会(18世紀)より。西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社の札を持って諸国を巡り、人形を操りながら信仰を広めた。1690年ころには、産所と呼ばれる神社の周囲に約40軒の傀儡師が住んでいた。]
天文3年(1534年)、兵火に掛かり尽く焼失する。
慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって表大門(赤門、重要文化財)が再建され、慶長9年から慶長14年(1604年 – 1609年)の間に本殿、拝殿なども再建された。慶長15年(1610年)には秀頼によって「御戎之鐘」が奉納されている。
江戸時代には、徳川家綱により焼失した本殿が再建されている。また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を江戸幕府から得て、隆盛した。
1870年(明治3年)、西宮戎社と呼ばれた当社であるが、『摂津志』などの記載により「大国主西神社」と改称した(現在のえびす神は実は大国主であるとする説も古代からあった)。1872年(明治5年)3月、官幣大社となった廣田神社から分離独立し、後に村社に列せられた。
1875年(明治8年)4月に、大国主西神社を西宮神社に改称。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)8月6日に行われた第5回西宮空襲によって境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上が落下し、旧国宝の本殿などが焼失した。
1961年(昭和36年)11月、本殿、拝殿が再建される。
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で境内は大きな被害を受けるが、2000年(平成12年)に復興する。 (wikipedia・西宮神社より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「8巻5・西宮神社」
西宮神社鳥居・神門前のカメラです。
西宮神社神門内参道のカメラです。
廣田神社境外摂社・南宮神社拝殿前のカメラです。
西宮神社 祈祷殿前のカメラです。
西宮神社 拝殿前のカメラです。
納札所前からのカメラです。