マーカーは西教寺です。
大塔宮遺跡碑
[父の後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企て隠岐に流された後、大塔宮は逃避の旅の末、大塔の地で郷士戸野兵衛の助けを得て安堵の日々を送ることとなりました、やがて王政復古を願う親王(名を改め「大塔宮護良親王」となった)は、近隣の精鋭軍を従えて倒幕のため蜂起しました。
『大塔宮護良親王伝説』 (「五條の社寺仏閣・史跡」より)]
[元弘元年(1331年)10月末(?)大塔宮一行は皆、柿色の法衣に笈を背負い頭巾を被り金剛杖を握り山伏の姿であった。一行の氏名は、赤松則祐・光林房玄尊祐・矢田彦七・木(小)寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上義光・片岡八郎・平賀三郎の9人であった。
大塔宮一行は熊野から方向を変え半月を経て十津川村(奈良県吉野郡十津川村)に着き、玄尊が一軒の家を見つける。その屋敷は戸野兵衛と云い豪族竹原八郎宗親の甥の屋敷であった。この家には病人がいて、大塔宮が祈祷をすると不思議と病が治った。その礼として一行はこの家に滞在する事になる。滞在から数日後に小寺相模は素性を打ち明けると仲間に加わり、竹原八郎は黒木御所の造営を開始する十津川で大塔宮・尊雲法親王は還俗し護良親王となった。 (wikipedia・護良親王より)]
[鎌倉幕府における北条氏の不臣から討幕の計画を立てられた後醍醐天皇は、第三皇子である護良親王の助けによって「建武の中興」を成し遂げられましたが、護良親王は鎌倉幕府の追跡を逃れて笠置山、赤坂城等を経て、少数の従士とともに熊野に落ちられる道中、当地にしばらくの期間身を置かれたと伝わります。
山伏姿に身をやつし苦難の末当地に到った親王は、この地方の豪族であった竹原八朗、戸野兵衛らの助けを得てここから全国に令旨を発したことで、建武中興の大業成就を叶えたとされています。
このことから、当時この地域には竹原、戸野ら、力を持った一族がいたことがわかりますが、広い耕作地を持つ地域ならまだしも、人里を遠く離れ、道も未発達な秘境の地であった当時、すでにこうした一族が存在したことには何らかの理由があったものと想像されます。
周辺の十津川村や野迫川村等、周辺に源平の争乱に係る落人の伝承があることから、大塔町地域においても武将、一族が隠れ住んだことは想像されますが、太平記では山伏姿の大塔宮に戸野兵衛が語った言葉として「平維盛を我が先祖がかくまった」とあることから、あるいは源平の争乱以前よりこの地に居を構えていた一族がいたとも考えられます。
これを示すものとして、鎌倉初期の平家物語では「吉野とつかはの勢ども馳集て云々」、保元物語には「吉野十津河のさし矢三町、遠矢八丁のものども云々」と、この地域から南都衆徒ととして精兵が集められたとする記述が見られることからも、保元の乱の時代には、この地域に弓の名手が多かったらしき様子がうかがわれ、また辺境でありながらも中央権力との連絡が取れる階層の一族であったことがわかります。 (「旧大塔村のあゆみ – 五條市」より)]
村名の由来
[後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が元弘の変の際にこの地の豪族戸野兵衛・竹原八郎らに匿われたことに由来する。
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、辻堂村、殿野村、閉君村、宇井村、猿谷村、堂平村、飛養曽村、引土村、清水村、中峰村、中井傍示村、惣谷村、篠原村、坂本(阪本)村、簾村、小代村、中原村、唐笠村の18の区域(野長瀬組)をもって発足。 (wikipedia・大塔村_(奈良県)より)]
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「大塔宮」(7-27)
[殿野兵衛宅は十二村の荘殿村にあり大塔宮二品親王山伏の御すかたにて熊野より落させ給ひ十津川小柳着きおはしまして竹原八郎入道の甥に戸野兵衛といひしものゝ家にしばらく入せ給ふよし太平記に見へたりその末葉今の世にもありとぞ聞へし]
西教寺参道前のカメラです。
大塔町辻堂の鳥瞰カメラです。