転法輪寺

マーカーは転法輪寺です。

転法輪寺
[転法輪寺(てんぽうりんじ)は奈良県御所市高天にある真言宗醍醐派の大本山の寺院。葛城修験道の根本道場でもある。
修験道の開祖とされる役小角が16歳のとき金剛山に登って苦修練行を重ねた結果、天智天皇4年(665年)祖神一言主大神を鎮守とし、法起大菩薩を祀る金剛山寺(転法輪寺)を建立して神仏習合の霊山としたのが開創と伝承される。奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山の1つに数えられ、歴代天皇勅願所として五堂七宇の殿堂輪煥の美を誇った。
行基鑑真最澄も来山し、聖宝も修行したと記録される。
鎌倉時代の末、楠木正成がわずか5百の兵で金剛山中腹に築いた山城(やまじろ)の千早城に戦陣を張って、鎌倉幕府が派遣した総勢5万といわれた関東の軍勢を寄せ付けなかったのは、金剛山寺(転法輪寺)の修験勢力の支援が大きかったと伝わる。
明治元年の神仏判然令(神仏分離)によって一言主大神を祭神とする葛木神社のみが残されて、廃仏毀釈によって金剛山寺(転法輪寺)は廃寺となった。
昭和の再興
地元の金剛山講によって転法輪寺の復興が強力に要望され、日本国憲法による信仰の自由、神社庁を初め宗教学識経験者やマスコミ等の各界の意見を総合し、昭和25年(1950年)役行者1250年御遠忌を契機として金剛山古来の伝統、神仏混淆の旧態に復して、真言宗醍醐派に属する葛城修験道大本山として転法輪寺が再興された。金剛山講の協力を得て本堂は昭和36年(1961年)に落慶し再建された。

雪景色の転法輪寺・wikipedia-photo

護摩壇から見る転法輪寺・wikipedia-photo

転法輪寺本堂・wikipedia-photo

転法輪寺で勤行中の修験者・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、転法輪寺_(御所市)の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・転法輪寺_(御所市)より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「金剛山」(5-10)

[「金剛山は大和・河内の堺(境)にて、今の本堂は大和の内、五坊は河内なるよし」。そして、山上から二町(約218m)ほど西へ下ると「役小角の開基なり。是山伏の嶺入して修法する所なり」と書かれた金剛山転法輪寺があります。同寺については、「大和・河内の農民此神を甚だ尊崇し、社の下の土を少しばかり取りて帰り、我が田地に入るれば稲よく実りて、虫くわずとて参詣の人夥し」と記され、豊饒祈願のよりどころだったことがうかがえます。挿図を見ると、山頂近くに金剛山寺の本堂があり、左寄りに御影堂や大黒堂、大日堂、弁財天社などが点在する様子も描かれています。前記の通り、役小角(役行者)が開基したと伝わり、修験道の霊地として知られました。挿図には踏み外せば滑落しそうな山道を歩く人や、うねる山々の間を漂う雲々が描かれ、どこを見ても人家らしきものはなく、人里遠く離れた金剛山の深山幽谷ぶりが表されています。宿坊があるのは、いかにも修行の地らしく、また、宿坊について本文には「宿する者多し」としながらも、「檀那にあらざれば宿を借(か)さず」と厳格な一面も読み取れます。本文の記述で興味深いのは、金剛山と、これに連なる葛城山を指して、「大和巡覧記に曰く、或説に、」と断りつつ、「日本四番の高山なりと云ふ」とある点。実際には富士山3776mを筆頭に、標高100番目の山(新蛇抜山)で2667m。金剛山1125mでは300番にも入りません。江戸の人々がそれを知らなかったはずはなく、他誌からの引用とはいえ、あえて金剛山を「日本四番の高山なりと云ふ」としたのは、金剛山の「格」を強調する意図があったように思われます。金剛山に登るには、千早赤阪村からという人が多いようですが、御所市の高天彦神社から登るルートなどもあります。  (「『大和名所図会』今昔めぐり 23 金剛山」より)]

転法輪寺 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向が転法輪寺本堂参道石段になります。

カメラ位置は護摩壇で、カメラ南東方向が転法輪寺本堂参道石段です。

転法輪寺本堂前のカメラです。

葛木神社 Google Map 画像リンク」(Google Map)

葛木神社鳥居石段前のカメラです。

葛木神社拝殿前のカメラです。