逆櫓(さかろ)の松跡

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逆櫓(さかろ)の松跡
[『逆櫓(さかろ)の松跡
 『平家物語』の逆櫓の段によれば、1185年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
 結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめた。   
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
 逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
                                              大阪市教育委員会』
大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建て、昭和20年3 月13日の大阪大空襲で行方不明になっていました。
昭和33年に見つかり、地元有志によって昭和49年5月に現在地に移設されました。  (「逆櫓松 | 続・竹林の愚人」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」- 「3巻50・福島天神三所 逆櫓松

図絵に上天神、中天神、下天神が描かれ、上天神下に「さかろの松」と記述されています。

里の家芳瀧(中井芳滝)/画 福しま逆櫓松(wikipedia-photo)

カメラ北北西方向、植え込みに逆櫓(さかろ)の松跡碑と案内板が設置されています。