適塾

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適塾
[適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする。幕末から明治維新にかけて福澤諭吉大村益次郎箕作秋坪佐野常民高峰譲吉など多くの名士を輩出した。
適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。
塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。
塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。
適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。
塾生の多くは苦学生で、遊びはたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度だった。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。後に卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養ったのである。
緒方の死後は、福澤諭吉と大鳥圭介が中心となって、6月10日と11月10日を恩師の記念日として同窓の友誼を深めるために毎年親睦会を開いていたようである。この親睦会には長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していた。
1869年(明治2年)、後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院および仮医学校が設立される。院長は緒方惟準(洪庵の次男)、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招き大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために開かれた。半年で鈴木町(現在の大阪市中央区法円坂二丁目)の河内県庁跡(もと大坂代官所。のち南司農局。現在の大阪医療センター付近)に移転した。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。浪華仮病院および仮医学校は、改組・改称を経て大阪帝国大学へと発展し、現在の国立大学法人・大阪大学となっている。  (wikipedia・適塾より)]

カメラ南方向が元適塾になります。