金龍寺跡

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金龍寺跡
[金龍寺(こんりゅうじ)は、大阪府高槻市にある天台宗の寺院。山号は邂逅山(たまさかやま)。院号は華雲院。本尊普賢菩薩。なお、寺の本堂は1983年(昭和58年)、ハイカーの火の不始末により焼失して廃寺となり、現在は金龍寺跡となっている。
この寺は、790年(延暦9年)安部是雄が建てた安満寺に始まるとされ、盛時には19の坊舎があり、天皇の行幸があるなど巨刹であった。その後衰退したが、964年(康保9年)三井寺で修行した千観が「日想観」のある土地を求め、金色の雲が湧く山がある。と、この地に来て再興した。ある時、境内の池に竜女が現れて法水を甘んじ成仏したのを見て、金竜寺と改称した。それ以来、雨乞いの霊験があり、969年(安和2年)に旱魃が続いた時に、冷泉天皇命で千観が祈雨したところたちまち雨が降ったという。戦国時代、1573 – 1592(天正年間)に高山右近の兵火にあって焼失したが、1602年(慶長7年)に豊臣秀頼によって再興された。その頃には寺領30石クラスの寺として門前村が形成され、巡拝や遊山でも浄財を集め大いに栄えたという。古くから桜の名所であった。
その後の金龍寺は明治時代の廃仏毀釈により荒廃し、1938年(昭和13年)に笹部新太郎が桜の調査に訪れたときも、電気も水道もない荒れた境内に老僧が一人いるだけの状態であったという。その後、寺籍は岐阜に移され金龍寺は廃寺となった。
能因法師の「山寺の春の夕暮れ来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」(新古今和歌集)はこの寺を詠んだ歌である。この寺の桜は能因桜と呼ばれ、桜の名所として『摂津名所図会』にも書かれており、西行松尾芭蕉もこの寺を訪れ句や文を残している。
太閤道
豊臣秀吉明智光秀と戦った山崎の戦いに臨む際に、高松城からの中国大返しで山越えに使った道であることからこの呼び名が付いた。金龍寺跡は太閤道の途中にあり、ハイカーの休憩所として利用されている。  (wikipedia・金龍寺_(高槻市)より)]

太閤道コース図(「高槻市観光協会 – 2 太閤道コース」より。) – 「2 太閤道コース」では磐手橋バス停から金龍寺跡まで 1.5km 45分と記述されています。

88.金竜寺丁石建立紀銘石 – Hi-ho

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」- 「6巻59・金龍寺

6巻60・金竜寺山松茸狩

金龍寺跡案内板前のカメラです。案内板には「金龍寺は、ここより北北東約 2 km」と記述されています。(案内板の座標:34.867238214793815, 135.62977323284977)

金龍寺跡案内板の成合南公園改修前の画像 – 案内板には「金龍寺は、ここより北北東約 2 km」と記述されていますが、案内板右に「金龍寺跡 1.2km」の案内表示板がある。「(Google Map 画像)

金龍寺跡に建つ石塔(Google Map 画像)