下植野南遺跡

マーカーは下植野南遺跡案内板です。

下植野南遺跡(しもうえのみなみいせき)
[時代 – 弥生古墳時代
調査年 – 1990 ~ 1994
所在地 – 京都府乙訓郡大山崎町
コメント
 名神高速道路の拡幅工事と大山崎ジャンクションの建設に先立ち、広範囲に調査を実施しました。その結果、古墳時代の集落と弥生時代の墓地が見つかりました。古墳時代の集落は中・後期のもので、竪穴式住居跡が 60 基あまり、掘立柱建物跡が 40 基以上が検出されています。未調査部分を考慮すると、 100 基以上の竪穴式住居があるものと思われます。近年の調査では、北側の松田遺跡でも同時期の竪穴式住居跡が確認されていますので、関連が注目されます。
 古墳時代の集落の下層には、弥生時代中期の方形周溝墓が 80 基以上検出されました。府内でも最多の方形周溝墓で構成された墓地ですが、今のところ、同じ時期の居住施設は見つかっていません。  (「下植野南遺跡」より)]

[弥生時代と古墳時代における大きな発見がありました。
弥生時代の発見は弥生時代中期の墓である方形周溝墓が80基以上検出されたことです。方形周溝墓とは、隅が丸い方形または長方形のマウンドがあり、周囲に溝が掘られ、マウンドの中央部に埋葬施設がある墓のことをいいます。発見された墓の大きさは平均 80 ㎡ で、墓城の範囲が 1700 ㎡ にもなる近畿地方でも屈指の広さでした。
古墳時代の発見は古墳時代中・後期の家である竪穴式住居と堀立柱建物が検出されたことです。発見された竪穴式住居は方形で平均面積 20 ㎡ でした。この辺りには 100 基以上の竪穴式住居があり、家型乙訓地方で最大級の集落であったようです。 4 世紀後期に造られた土辺古墳も検出されています。この古墳は一辺 13 m の方墳で周壕の中からは特異な形の埴輪が出土しました。この家型埴輪は入母屋造り高床式倉庫で、を支える方杖が桁側及び妻側に 12 本あり、全面を赤色に彩色されています。埴輪を復元してみると高さは 100 cm になりました。方杖をもつ家型埴輪が発見されたのは全国で初めてでした。
下植野南地区は、川からの恵みと地理的条件から弥生時代中期と古墳時代中・後期頃には大集落が誕生し、淀川水系の中核として重要な役割りを果たしていたと考えられます。  (「下植野南遺跡 – 大山崎町商工会」より)]

[久我畷は、平安時代朱雀大路の延長戦である「鳥羽作り道」から山崎駅を結ぶ北東から南西方向の直線道路で、歴史地理学では、平安京造成時に造られたと推定されています。
 久我畷が文献にはじめて現れるのは『徒然草』で、鎌倉時代のことです。『太平記』などにも見られます。応仁の乱のさなか、応仁元( 1467 )年に久我畷において、山名氏細川氏が政権を争って合戦をしたのは有名な話です。また、秀吉が天下をとった大山崎の合戦でも、武士たちが久我畷のあたりで戦いを繰り広げました。 
 これらの記述では、久我畷は馬が足をとられるような田んぼの畦道でした。
 大山崎下植野南遺跡の調査で、「久我畷」を踏襲したと考えられる道路を 130 m にわたって調査しました。平安時代前期にさかのぼる久我畷を確認できるものと期待されました。
 調査では、平安時代後期には道路が敷設されていたことがわかりました。この段階では 2 本の溝に挟まれた幅 10 m の道路であり、その上面はある時期に部分的に小石で舗装されていました。ぬかるみを埋めたのか、重い荷物を運ぶために整地したのかもしれません。中世後期には畦道程度の狭い道路にかわっていました。
 現在利用されている道も古代から踏襲されていることがわかりました。(松尾史子)  (「財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター」 – 「久 我畷は、平安京の朱雀大路の延長線である「鳥羽作り道」から …」より)]

京都府埋蔵文化財情報 – 京都府埋蔵文化財調査研究センター – 京都府埋蔵文化財情報. 第 85号」(2.下植野南遺跡(土辺地点))

京都府埋蔵文化財情報 – 京都府埋蔵文化財調査研究センター – 京都府埋蔵文化財情報. 第 82号」(久我畷の発掘調査 中島(松尾) 史子 –23)

下植野南遺跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が下植野南遺跡案内板です。