久我畷分岐

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山陽道(西国街道)と久我畷(奈良時代~ )
[我国古代交通路の内最も重要な道路であったのは山陽道久我畷(こがなわて)である。山陽道は長岡京延暦三年(七八四)に遷都されるとその役割が高まり、長岡京と九州大宰府を結ぶ太宰府道として人々の往来や物流が活発となった。いわば古代の国道一号線として重要な道路であった。また長岡京から程近い山陽道沿いには山崎津がありから陸揚げされた物資は人馬によって山陽道を都へ運搬された。平安時代の役人であり文人である紀貫之土佐守の役職を終えて都へ帰る途上山崎津で舟を降り、山崎で宿泊した後山陽道を通って島坂(向日市)から京へ向かった事を”土佐日記“に記している。
 鎌倉時代から室町時代には八幡宮油座の神人たちが山陽道を通って京へ大坂へ油を商いに言ったものと思われ、油座をバックに大山崎は大いに賑わいを見せていたものと思われる。
戦乱の世の終わり天正十年六月、羽柴秀吉備中高松城攻めの途上織田信長の死を知り、急ぎ西国街道を都へととって返し大山崎の西国街道と小泉川が交わる所あたりで明智光秀と合戦することになる。この時も西国街道が京へ向うルートとして重要な役割を果たした。また久我畷は平安時代に都市計画道路として計画的に通された道路で、平安京の延びる鳥羽造り道と山陽道を結ぶバイパス道路として設けられた。山陽道は大山崎から都に向かう途中にかなりの上がり下がりがあり人馬で物資を運搬するのは骨がおれるためそれを解消して最短距離で都へ入る道路として大きな役割を果たした。
 近世の文献にも久我畷の名は見え戦国時代天正山崎合戦の時に惨敗した明智光秀が敗兵と共に近江へ逃れるため通ったのも久我畷であった。山陽道(西国街道)と久我畷、共に千古の歴史を人々の往来と共に刻みつづけてきた街道で、大山崎の繁栄と    切りはなせない重要な道路であったと言える。その重要性は時代の移ろい  今日も我々の生活道路としてその役割を担っている。
     昭和六十三年三月  (「山陽道(西国街道)と久我畷(奈良時代~ )案内板(画像リンク)」より)]

[鳥羽作り道の久我森ノ宮から山崎へ南西方向に直線的に進んでいた道が久我畷(こがなわて)である。  (wikipedia・鳥羽街道より)]

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)京阪神図」の1892~1910年の地図の左下・大山崎の上で、西國街道下が松原交差点で、そこから右上方向、久我村まで久我畷のルートの痕跡が描かれています。

山崎通分間延絵図-山崎宿(「E0028647 五海道其外分間絵図並見取絵図 – 東京国立博物館 …」より)
絵図右端街道二又が久我畷分岐、その左に大山崎の東黒門が街道両端に描かれています。黒門左方向の鳥居が山崎聖天 観音寺一の鳥居、鳥居上方向に観音寺、観音寺の左方向に宝積寺が描かれています。絵図左端の街道鍵の手の左が離宮八幡宮で、離宮八幡宮下の御車道左に道標が描かれ、そこの下方向に山城 摂津国境と読み取れ、そこの左が関大明神社になります。

  
拾遺都名所図会」・「巻之二 左青龍首 旅人道を尋ねる図
旅人道を尋ねる図(拡大図)

[仁和寺(にんわじ)の法師が石清水(いはしみづ)を拝んとて極楽寺(ごくらくじ)高良(かうら)などばかりをおがみてかへりにけり。畦道山路などは村里にてきはしく尋ねをくべし。さしかかりて問ふ人なき事多し。少しのことにても先達はあらまほしきと兼好法師(けんかうほうし)も教訓し給ひぬ。
新古今 白雲のかかる旅ねもならはぬにふかき山路に日はくれにけり  権僧正永縁]
    
地蔵道標 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向に山陽道(西国街道)と久我畷(奈良時代~ )案内板があります。