伝 与市兵衛の墓

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伝 与市兵衛の墓
[この碑は、清誉浄佐(せいよじょうさ)なる人物が両親の供養のために、高野聖(高野山を拠点に諸国を廻り勧進する僧)を千人寄宿させたことを石碑に刻み、寛文八年(一六六八)以降に建てたものとみられます。
 地元では、この碑は「与市兵衛の墓」と長く伝えられてきました。与市兵衛は、元禄赤穂事件(一七〇二年)を題材とした「仮名手本忠臣蔵」に登場します。物語のなかで、与市兵衛は、婿早野勘平を主君の仇討の一員に加えるために娘お軽を祇園に身売りして工面したお金を持って山崎へ戻る途中、この地(横山峠)で山賊に殺されます。
 この地は、かって木々が生い茂り、物語の舞台にふさわしい場所であったため、当時、根強い人気を誇った「仮名手本忠臣蔵」ゆかりの地として、語る継がれたのかもしれません。
          長岡市観光協会
      (公社)京都府観光連盟   (「伝 与市兵衛の墓案内板(画像リンク)」より)]

[仮名手本忠臣蔵の五段目の与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、京都府長岡市友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない(『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊)。
与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような川柳が詠まれている。「五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり」
五段目から、場面は京に程近い街道筋へと変わる。この五段目の舞台となるのは「山崎街道」であるが、山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い山崎の戦いなど、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。
ところで、この五段目の定九郎に惨殺される老人とは何者か。後の解説に差し障るので先に白状すると、これはおかるの父与市兵衛である。その与市兵衛が雨の降る暗い中を、五十両という大金を持って道を急いでいるのはなぜか。その仔細は六段目で明らかになる。
勘平は前段五段目の時点で、師直への仇討ちの謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。そこでおかるの父与市兵衛は勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋に行き、おかるの身を百両で売ることになった。与市兵衛は一文字屋から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途に着く。
この五十両が、そのまま勘平に渡ればなんとも無い話である。ところが与市兵衛は道中盗賊(定九郎)に襲われ、金と命を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、定九郎を猪と間違えて偶然に誤射し、これも死んでしまう。勘平は定九郎が大金の入った財布を持っていることに偶然気づき、持ち主を失ったその財布を横領する。かくして、金五十両は勘平に直接渡らず悪党定九郎を経由したことにより、犯罪の金となってしまう。後でそれが大変な悲劇、つまりこの六段目の勘平切腹につながる。与市兵衛の女房はその挙動と財布から勘平が夫を殺したと思い、勘平も夜の闇の中で何者であるか知らないで取った財布だけに、自身が舅与市兵衛を殺したものと思い込み気も動転してしまうのである。誤解が誤解を生む悲劇、その典型といえよう。  (wikipedia・仮名手本忠臣蔵より)]

伝 与市兵衛の墓 – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向が西国街道で、街道右に与市兵衛の墓の案内碑があります。

カメラ西北西方向が伝 与市兵衛の墓です。