勝竜寺城跡

マーカーは勝竜寺城公園です。

勝竜寺城
[勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、現在の京都府長岡京市勝竜寺に所在した、南北朝時代から江戸時代初期に存在していた城である。城名は付近の同名古刹(勝竜寺)に由来する。
勝竜寺城は京都盆地の西南部、小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道久我畷(こがなわて)が交差する交通上の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。また勝竜寺城は古墳を流用して築いたのではないかと言われているが、『図説中世城郭事典』によると「主郭や沼田丸ではそれらしき痕跡は認められない」としている。
元亀2年(1571年)、細川藤孝山城国西岡一帯を織田信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。同年 10 月 14 日の信長より藤孝宛ての『印判状』には『勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し— 織田信長の印判状』とあり、桂川より西にある家のすべては 3 日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。この頃の勝竜寺城は槇島城と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われる。また勝竜寺城は細川忠興細川ガラシャ夫妻ゆかりの城としても有名である。天正 6 年( 1578 年) 8 月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。
細川藤孝は天正 9 年( 1581 年)に丹後国に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変によって明智光秀の属城となる。同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。
江戸時代に入った寛永 10 年( 1633 年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。この際に不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、慶安 2 年( 1649 年)に直清が摂津国高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。
現在
本丸および沼田丸趾が 1992 年(平成 4 年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、北門に当時の石垣の一部が残る。また当城の北東に位置する神足神社境内に土塁・空堀を復元している。
明智光秀の娘 玉(細川ガラシャ)が細川忠興に輿入れした史実にちなんだ「長岡京ガラシャ祭」が毎年 11 月第 2 日曜日に開催され、当時の様子を模した行列巡行などが行われている。
2019 年(令和元年) 11 月に展示室や園内看板などがリニューアルされた。展示室には、勝龍寺城にゆかりの細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)・玉(ガラシャ)・明智光秀ら 4 人の人物に焦点を当てたパネル展示や映像のほかに、瓦や一石五輪塔などの出土遺物を展示し、「瓦・石垣・天守」を備えた近世城郭の原点として紹介している。

模擬櫓と虎口跡・wikipedia-photo

勝竜寺城公園の管理棟・wikipedia-photo

模擬隅櫓と堀跡・wikipedia-photo、模擬塀と堀跡・wikipedia-photo、隅櫓推定地・wikipedia-photo、勝竜寺城公園の石標・wikipedia-photo、井戸跡/沼田丸跡にある・wikipedia-photo、主郭と沼田丸を区切る西側土塁跡・wikipedia-photo、土塁登頂部部分・wikipedia-photo、空堀・wikipedia-photo、土塁跡・wikipedia-photo、神足神社の拝殿・wikipedia-photo  (wikipedia・勝竜寺城より)]

勝龍寺城跡 – Google Map 画像リンク」「勝龍寺城 模擬隅櫓 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向が勝竜寺城跡(勝竜寺城公園)入口、模擬大手門・模擬塀前のカメラです。

勝竜寺城公園内のカメラです。

模擬隅櫓前のカメラです。

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