大山崎の東黒門跡

マーカーは大山崎の東黒門跡です。

大山崎の東黒門跡
[江戸時代後期までの大山崎は、西国街道(現在の府道六十七号線)に沿って屋敷地が長細く続く集落でした。かって大山崎の住民は集落の東西の先端に、東黒門、西黒門を設け、治安の維持をはかっていました。この地域は、そのうち東黒門の場所で、門の前で道が屈折していました。江戸時代には周辺に多くの旅籠(はたご)があり、黒門に接した高槻屋は、大名も宿泊できる大山崎随一の宿屋と知られていました。
 かっての黒門の様子は江戸時代の古絵図に描かれています。天正一〇年(1582)六月の有名な山崎合戦では、羽柴秀吉軍の先陣高山右近が、黒門を利用して、この地に陣取りました。門を開けるよう求めた明智光秀軍と小競り合いとなり、合戦が始まったと言われています。
石敢当
 石敢当(いしがんとう)とは、邪気(じゃき)を払う魔よけの石板のことです。集落や境内の出入り口に置かれました。おもに沖縄九州に多く、近畿では珍しい存在です。この石碑が建てられた時期や経緯は不明ですが、やはり集落の境界が意識されたことがわかります。
高瀬川清兵衛石碑
 高瀬川清兵衛は、江戸時代後期に活躍した大山崎出身の力士です。彼は大山崎の旅籠高槻屋出身で、引退後は相撲(すもう)の興行主として活動しました。当時の相撲は勧進(かんじん)行事や神事と密接に関わり、乙訓地域の各神社でたびたび行なわれました。相撲興行に尽力したことを顕彰して、明治時代前期に建てられたものです。
    平成二九年三月  大山崎町教育委員会]

[平安時代の末に当地で始まった荏胡麻油生産が活発化すると鎌倉時代には大山崎油座が結成され、離宮八幡宮は座の会所となり大いに繁栄しました。
室町時代には大山崎油は西は九州北部から東は美濃地方まで独占販売するほどになりました。
大山崎は室町幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。  (「離宮八幡宮/大山崎町」より)]

山崎東黒門跡 – Google Map 画像リンク」、「高瀬川清兵衛石碑・石敢當 – Google Map 画像リンク

カメラは北北西方向に石敢当や高瀬川清兵衛石碑があります。